今年も、自宅の夏みかんが大量収穫である。
教会で、赤字対策の一環で皆さんに買ってもらっているが、少人数の教会では、買って戴くにも限界がある。

よし、それでは。

一大奮起して、自分でマーマレードを作ってみることにした。
とりあえず6個に挑戦。
皮を削り取り、付いている中の白いわたを削ぎ落し、水につけてはこぼし、を三回くらい。
そして2時間くらい水につけて、そのあと、小さく切る。そしてもむ。もう一回・・
実の方は、袋から一つ一つ出しておく。
初めての作業をしてみると、何と、ここで指先が疲れてきた。
慣れない作業は、意外と大変だ。こんなことで疲れるとは情けない。
このあと煮込むのは、さらに時間がかかりそうなので、あとは、明日にすることにした。

みかんは全部で100個くらいある、
ということは・・
今日のたった6個の皮むき作業でも、こんなだから、残りを仕上げるのはとうてい無理だと分かった。

さて、残りはどうするか。(実は、この後、もう一度挑戦した。計12個なり。)

それにしても、私が腕によりをかけて作るマーマレード、プレミアムがついて、出来上がったあかつきには、
教会のミニバザーで高く売れること間違いなし!

え? プレミアムがついて、逆に下がるだって?

・・・

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by rev_ushioda | 2014-03-31 22:06 | Comments(2)

私たち泉教会が属するカンバーランド長老教会は、日本や香港以外に、最近、ラオス、カンボジア、フィリピン、韓国など、アジアに宣教拠点を持つようになりました。その内、香港と日本には複数教会による政治主体、「中会」が組織されています。しかし他の宣教拠点には中会組織はなく、単独で、あるいは少数の教会で、宣教活動が進められています。また成り立ちも、もともとはカンバーランド長老教会の宣教によって始まった働きではなく、独自に宣教活動してきた働きが、後にカンバーランドに加入した、というところもあります。
そのような宣教拠点からリーダーたちが日本に集まり、宣教の働きについて課題や情報を共有し、これからの宣教の働きを考える第1回の会議が、今年、開催されました。これは、カンバーランド長老教会の中にあって「アジア・ミッション・フォーラム」と名付けられました。会議を終えた次の日曜日、海外の参加者たちは分散して近隣の礼拝に出席しましたが、泉教会の礼拝には、Forest Prosser(フォレスト・プロッサー牧師/カンバーランド長老教会 総会議長)、Edith Old(イーデス・オールド長老/総会の元に置かれた運営協議会の総主事)が出席されました。とても親しみやすい人柄のお二人でしたので、記憶に新しいことです。
長老教会というと、国名を冠して、一つの国の中に組織が限定されるケースがほとんどですが、「カンバーランド長老教会」というこの名は、国名ではありません。リバイバルが盛んだった、アメリカの一つの地方の名前です。従って、名前からして、アメリカという一つの国に限定されなかったのかも知れません。とにかく、アメリカから始まって、南米コロンビア、アジアでは香港、日本などに一つの教会の拡がりが及んだ、めずらしい長老教会だと言えます。
そして今、アジアにあって、一つにまとまった動きが始まろうとしているのです。かつて香港から来た人が、「日本に来ると、英語ばかり話しているので、疲れる。」と言ったことがあります。なるほど、その通りでした。「外国の人、イコール英語を話す人」という誤った認識を打ち砕かれました。私たちは、アジアで宣教の思いを語り合い、アジアの言葉で、今、福音を語り出すのです。こうして、新しい宣教の働きを、泉教会からも模索出来たら良いと思います

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by rev_ushioda | 2014-03-29 13:55 | Comments(0)

「土地」

不動産屋で、何気なく窓に貼ってある物件を見ていたら、次の地図の「富士塚(バス)」と書いてあるところにある物件が紹介されていた。この地図には泉教会も出ているから、位置関係が分かると思う。土地の広さは確認しそびれたが、1500万円。しかし、「農地」とあった。
広さを確認しそびれた理由は、こんないい場所に!と思った感動が先だったからだ。そして、農地か・・というハードルの高さゆえに、広さは確認しそびれたわけである。
駅は弥生台か、いずみ野、そして「バス」とあるようにここはバス停で、立場からいずみ野行、瀬谷行が出ている。そして、何より、冨士山、丹沢連邦の景色がいい。ブログ冒頭のビデオを撮った場所のすぐ近くで、ほしかった最高の場所である。
資金繰りなど何もないのに、無性に欲しくなったが、その資金繰りが難しいのと、さらに「農地転用」は、共にハードルが高い。考えているうちに、買う人は、すぐにでも出て来るだろう。
とにかく現在の泉教会は、35坪、普通の家を増築したものだから、人数が集まるには限界がある。このような大きな通りに出ないといけない。いずれにしても、資金繰りをどう考えたらいいのか、最大の問題である。
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by rev_ushioda | 2014-03-24 21:20 | Comments(0)

「戦争しない憲法9条を保持している日本国民にノーベル平和賞を授与してください。」

座間市に住む一主婦(バプテスト教会連合・大野キリスト教会員)が始めた小さな運動が実り、戦争しない憲法9条を保持している日本国民が、今年、2014年度ノーベル平和賞候補にノミネート(推薦)されました。推薦人と賛同人を広げて、今後の選考過程において受賞を後押ししようと、現在も、署名運動が展開されています。
何とすばらしい発想ではないでしょうか。平和を願う、政治家でも何でもない普通の人の、普通の発想です。
私は、63年(私の年齢)、曲がりなりにも平和と言える時代に生きてきました。ずっと、このまま平和が続くのだろうと思ってきたのです。しかし時代は平和の上に眠りこけている私を、揺さぶり起こしました。今の政権は、私たちが地道に作り上げてきた平和の道を、側近さえ懸念するようなスピードで、かつブルドーザーのような力をもって、根こそぎ破壊しています。
聖書は、次のように言っています。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ2章4節)
この言葉を現代に翻訳したものが「日本国憲法第9条」であると、私は思っています。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
今、私たちはこの文言と実質をしっかり守ることで、次の世代に平和の遺産を残す分水嶺に立っているのです。
しかし、平和ボケのために今まで会話にのぼってこなかった「ケンポウ」を言えば、ああ、政治の話か…と気持ちが引く人を見ると、たまらない寂しさを感じます。政治ではない、聖書の話なのです。「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5章9節)と主イエスは言われました。平和の実現に向かって、行動しようではありませんか。憲法9条を保持する日本国民にノーベル平和賞を求める1枚の紙に、まず、あなたの名を記すことから。

9条に平和賞を
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by rev_ushioda | 2014-03-21 11:42 | Comments(0)

「3人目の孫」

娘の3人目の子である。
昨年8月、出血があり自宅で安静にしていたが、結局3か月くらい入院することになった。本人も家族もあと一日、あと一日とおなかにいてくれることを願い、祈り続けたのち、12月に、800グラム、未熟児として産まれてきた。病院の医療技術の進歩によって、今は命は助かる。娘は先に退院したが、病院にお乳を運ぶ毎日を過ごし、そしてこの子は産まれてから3か月後、本来の出産予定日あたりになって、体重も2000グラムを越えて、ようやく退院してきた。
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by rev_ushioda | 2014-03-18 20:04 | Comments(2)

フェイスブックを停止して、1、2か月になる。「解放された」という感じだ。

友だちリクエストが次々舞い込み、どうしたものかと思って、そのままにしておいた。時にはまったく知らない人もいるが、関係者をたどってきたらいし人、知ってはいるがどうしたものかという人、だいたいネット上の「ともだち」って? とりあえず、そのままにしておいたら、友だちになろうという人をそのままにしておくのか、という罪悪感が出てきて、それが苦しくなってきた。そしてついに「センセイ、私の友だちになってくれない」と言う人があり、(ああ、ごめん、しばらくフェイスブック見ていなかったから)と言い訳したが、これで限界と思い、フェイスブックから退出を決めた。気が晴れた。
友だちリクエストが来ないようにするやり方があるんだと言う人もいたが、それはそれで、別の問題があった。「いいね」だ。一度、「いいね」を押したら、次の記事にはどうして「いいね」が来ないのだろうと思う人もいるだろう。考えすぎかもしれないが、脅迫観念にとらわれるような気にもなっていた。
フェイスブック、ツイッター、その他、いろいろ使いこなす人は、便利に使っているのだろう。しかし、この文明の力に、いいように「使われている」と、私は感じられた。

退出した後、そういえば、「ともだち」に挨拶しないままだったことに気づき、また、心を痛めている。

ネット上のことで、何とも悩ましいことだと思う。

このように、好きな時に、好きなようにブログを書いているに限る。記事に関心のある人とのコミュニケーションをとっていればいい。フェイスブックの「ともだち」は、どうやら、私の辞書にはないようだ。

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by rev_ushioda | 2014-03-17 19:53 | Comments(0)

「教職者任職(按手)」

前回、キリスト者として信仰のバトンを次世代につなぐという話をしましたが、一方、教職者(牧師)の職務のバトンをつなぐことも大事で、それを「教職者任職(按手)」と言います。
これは、しかし洗礼式のように頻繁に起こることはありません。実際、中会で教職者が生まれるのは、数年に一度のことでしょう。なかなか目にすることが出来ないその瞬間に立ち会うことは、自分の洗礼がどういうところから始まっているかを考える貴重な機会になるに違いありません。キリスト者は、一度はその場に出向いて、その光景を目に焼き付けられることを強くお勧めします。
ところで、頭に手を置くことを「按手」と言いますが、「教職者任職式」で按手が行われます。それで、その式を「按手礼」とも言って、讃美歌には「按手礼」という項目が立てられて、歌う讃美歌が納められています。
それでは、按手に際していったい誰の手が置かれるかというと、中会会議の代議員(牧師と長老)の手が置かれるわけです。中会の会議が、その人に、牧師のつとめ(職務)を授ける、バトンを渡す、という理解をしているのです。牧師になるのだから牧師が手を置く、つまり牧師が、牧師の力を新しい人に分けて行くのだろうという考え方ではない、ということに気づいていただけたらよいと思います。中会会議が、教職者(牧師)のつとめ(職務)を、その新しい人に託すのです。
中会会議の代議員で出席している人は、20人を越えます。按手を受ける人は、その日のことは決して忘れない。頭のてっぺんから、首の骨が折れるかと思うほどの圧力がかかるのですから。そのようにして、牧師のつとめ、バトンが手渡されていくのです。
そして、その牧師から、私たちキリスト者は洗礼を受けました。洗礼の時、水が注がれ、そのあと頭に手が置かれて祈りがされたことは、私たちも忘れることができません。それもまた、按手でした。では、洗礼の時の按手は何のためであったかを考えると、そこで「信徒のつとめ(信徒職)」が手渡された、ということに、思い至るのではないでしょうか。私たちは、洗礼の時の按手で、信徒のつとめ(職務)に任じられたのです。私たちは、それをどのように行ったらよいでしょうか。
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by rev_ushioda | 2014-03-14 10:44 | Comments(0)

「バトンをつないで」

私たちが教会に行くようになったのも、キリストを信じる者になったのも、自分の意志でした。だから、洗礼を受ける時、自分の意志で「誓約」もしました。それによって自分の人生を作ったのです。
しかし忘れてならないことは、同時に、2000年の教会の歴史の、その歴史の最先端にキリスト者、礼拝者として、この私が置かれたということです。そういう意味では信仰の歴史を繋ぐ者、教会の歴史を繋ぐ者として、私が「選ばれた」のです。繋ぐということは、次の人にバトンを渡すという意味です。具体的には、私が召される時、教会に次の人を残すというつとめ、主イエスから与えられた使命が、あるのです。
よく、還暦を過ぎたあたりでお話に出るのは、年老いて、人に迷惑をかけてまで(醜態をさらすまで)そんな長く生きたくない、ということです。私も、還暦を過ぎてみると、あとどのくらい生きたら召されてもよい、という話をよく耳にするようになりました。しかし、そういう話をするとき、キリスト者としての「信仰の歴史を繋ぐ」という尊い役目を負っている、ということを忘れているのです。信仰に生きるということは、その信仰のバトンを誰かに渡す、駅伝の走者のような者だったのです。バトンを渡さず、さっさと自分だけ引き上げてしまってはならないのです。
箱根駅伝では、時間に間に合わず「繰り上げスタート」というシステムがあります。前走者が到着しなくても次の走者を出発させるのです。信仰者が人生半ばで倒れて、無念にも直接にはバトンが繋がらない、ということもあり得るでしょう。そうであったとしても、次の走者が走り出す、つまり、ずっと後になって家族、友人が教会に行き始めることは、起こらないわけではないのです。しかし、願わくは、私たちの手で「その人」にしっかりとバトンを渡し、信仰の遺産を残して、こうして、走者の役目を終えたいと思うのです。中継所を目前にしている皆さん、しっかりとそのバトンを手渡してください。

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by rev_ushioda | 2014-03-12 16:03 | Comments(0)

境川ウオーク。きょうは月曜日、思い立って、前回の続きを歩くことにした。前回はいつだったっけ? 調べたら去年の2月11日。ほぼ1年前だった。
今回は瀬谷から町田駅までの3時間(休憩を入れたら4時間)コースだ。川に沿って歩くのは、景色がいいから、気持ちがいい。ただ、写真を撮ろうとふらふらしていると、前回も書いたが、後ろから自転車が音もなく追い抜いて行くからドキッとする。車こそ通らないのだが、寒いので耳当てをしていると、通り過ぎる自転車の音は余計に聞こえにくい。この道、バックミラー付のヘルメットをかぶるべし。

途中、教会員のミリアムさんのお宅に立ち寄らせていただいた。やっと訪問が実現。一つ荷を下ろして軽くなったので、残り1時間、一気に町田駅まで。

前回の記事

               
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by rev_ushioda | 2014-03-03 22:42 | Comments(2)

「礼拝を奪い返す」

大雪のために礼拝に出ることができなかったとき、皆さんは何を思ったでしょうか。まさか「礼拝に行けなくてよかった。」などと思う人はいなかったでしょう。2週も連続で礼拝に行けなくて、とても残念だったはずです。つまり、自分は「礼拝者」であるということに、改めて気づかせてくれた、大雪であったのではないでしょうか。
雪であっても、どうしても行きたい人は、歩いて(電車を使って)礼拝に行きました。集まる人が大変だろうと、雪かきのためにスコップを持参し、電車に乗り、礼拝に向かった人もいました。今日は人数が少ないだろうから、せめて自分は行かなければ、と思って礼拝に向かった人もいました。キリスト者であるということは、「礼拝者」でありました。そのことが、2週連続の大雪で、はっきりしたのです。
礼拝に出ることができない一人の人は、自分が礼拝に出たら捧げるはずの献金を、毎週、必ず、人に託します。礼拝に行かなかったから献金しなくてよい、とは考えないのです。礼拝に行かれなかったとしても、心は、「礼拝者」として、そこにあるのです。礼拝に行くことができない時でも、しかし、その日の礼拝献金を託すということで礼拝を大事にすることは出来るのです。献金を託す人がいなければ、次週、まとめてささげればいいのです。なるほど、色々な礼拝への道があるのだと思います。
私たちの教会でシール投票をした赤字対策案ですが、一番多くシールを集めたのは、「礼拝を大事にしよう」でした。キリスト者とは、礼拝者です。その礼拝が、大雪や、その他の事情によって奪われることがあります。もし、奪われたら、それでも、たとえば献金することで礼拝を奪い返したらよいのです。奪われたまま、にしておかないで、礼拝を奪い返すくらいの気概を持つ。それがキリスト者です。

ゆきなれた路の
なつかしくて耐えられぬように
わたしの祈りのみちをつくりたい (八木重吉)
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by rev_ushioda | 2014-03-01 23:53 | Comments(0)