「クリスマス前後」

連日、ものすごく忙しかった。
クリスマスはどこの教会でも、「祝会」がいくつもある。たくさんの祝会を統合、縮小しようという教会もあると聞いた。私たちの教会では、そういう意味では、アドベント第4主日の礼拝後に行われる「クリスマス祝会」と、イブの「クリスマス礼拝」だけである。「だけである」と書くと、それだけのことになってしまうが、そして実際、23人(内、教会員10人)という小さなクリスマス礼拝であったが、そのためにどれだけの人に一人一人手書きで案内を送ったか。それでも今年は地域にポスティングはしなかったから、まだいいが、洗礼記念日のお祝いのカード、メールも発送する(クリスマスに洗礼を受けたという人が多い)。説教の準備の合間に、プログラム準備から、このようなことのおよそ全部をすることになる。忙しかった。
また、区内全教会が主催する「泉区民クリスマス」がある。ただし、今年は会場を確保できなかったために、内々の「クリスマス合同礼拝」が、あった。内々と言っても、区内全7教会プラス3団体合同の礼拝である。今年は私が実行委員長、当日の司式であったために、何かと気を遣うことになった。はからずも泉区内では史上初めてのカトリック、プロテスタント諸教会合同の記念すべき「クリスマス礼拝」となったのである。
こういうことが終わってみたら、葬式が入った。
教会ではないが、住んでいる地域の「組内」の家だ。私の家は、今のところに70年も住んでいるので、自治会とは別に、昔からの「地親類」つまり「組」というおつきあいがある。葬式があれば、それが自宅ですることになれば時には台所の裏方から家周りのことなど、なにかとお手伝いをすることになっているのだ。最近は斎場ですることになったために、今までのような大騒ぎすることもなくなったが、今回は、会計を任された。その後、親戚ではないが、斎場までお付き合いする。主日の準備が頭の中をめぐる中でのお手伝いであった。
気づけば、明日は今年最後の主日礼拝である。続けて、「元旦礼拝」である。まだまだ・・ 余念なく、礼拝にお仕えしたい。まずはブログで覚悟を記して・・ さあ!

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by rev_ushioda | 2013-12-28 10:34 | Comments(0)

「キツネの襟巻」

群馬県に「わたらせ渓谷鉄道」があります。かつての足尾銅山に行く鉄道ですが、その沿線に「富弘美術館」があって、ある時、そこに行く機会がありました。そこには不慮の事故で車椅子の生活になった星野富弘さんという人が、口で描いた絵と詩が展示されています。その星野さんが入院中のことです。病院の廊下で、キツネの襟巻(えりまき)をしている人とすれ違ったのです。「からだの中をすっかり空にされ、皮だけになったキツネは、その人の首からずりおちないように、まるくなって自分のしっぽをかんでいた」。
その時のことは、星野さんにとって大事な経験でした。小学生向けの本の中で、次のように本に書いています。「(襟巻のキツネの目はガラスの目玉ですが)その目が悲しそうに見えたのは、そのガラスの目玉の中に、自分の心がうつっていたからかもしれません。わたしは、忍耐ということばがすきでした。わたしのところへくる手紙のなかにも、ずいぶんそのことばが見られました。でも、えりまきにされてしまったキツネを見たとき、たえれば、たえるほど、自分のからだに歯がくいこむような毎日をおくっている自分を見たような気がしたのです。そして思いました。いまのわたしにとって、忍耐などということばはいらないのではないか…」「動ける人が動かないでいるのには忍耐が必要だ/私のように動けないものが動けないでいるのに/忍耐など必要だろうか/そう気付いた時/私の体をギリギリに縛りつけていた忍耐という棘のはえた縄が/“フッ”と解けたような気がした」。
私たちは自分らしく生きることができないで、自分を愛するのは自分しかいないのにその自分を鞭打って頑張れ、頑張れと言っていないでしょうか。星野さんは「たえれば、たえるほど、キツネの襟巻のように自分のからだに歯がくいこむような毎日をおくっている自分だった」と言っています。皆さんに、星野さんも勇気付けられたキリストの言葉を贈りましょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)

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by rev_ushioda | 2013-12-28 10:04 | Comments(0)

「被災地」宮城県から、教会にクリスマス献金が送られてきました。ご自宅が津波で壊された方からです。
「クリスマスおめでとうございます。おかげ様にて家も建ちほっとして皆、あちこち調子をくずした一年でしたが、皆、この事をきっかけに自己管理に気を配るようになりました。新年は教会への一歩があゆめる様にしたいと思います。感謝献金を同封しましたので、神様の御用の為にお納め下さい。」

折り目のないお札がクリスマスカードと共に入っていました。

前に住んでいた地域にお住まいの日本基督教団の教会の会員の方は、今年も遠く泉教会にまでおいでになって、クリスマス献金を届けてくださいました。お宅の近くに伝道所(現さがみ野教会)が出来たということで訪ねてくださって以来ですから、今年で37年目になります。特に今年はお連れ合いが大病を患い、抗がん剤治療を受けておられるというのに、です。

私は思うのです。「主が手をとって起こせば、よろめく足さえ/おどりあゆむよろこび。これぞ神のみわざ。」(讃美歌446番)

主イエスがお生まれになった時、エルサレムではヘロデが権力を「私物化」し、ベツレヘムでは、普通の市民、市井の人々が、自分の部屋、時間、所有を「私物化」し、後から遅れて来たヨセフとマリアに、部屋を使うチャンスを与えなかったのです。聖書はそういう人間の姿を描き出していました。しかし神は、その同じ時に、羊飼いや、東方から来た学者たちの心を開いてくださり、献げる者の喜びの足取りを作ってくださったのです。
今も、一人一人の「私物化」した手を開いてくださる。それが被災地のあらゆる困難の中からのささげ物となり、あるいは病気との闘いの中からのささげ物となったのです。
そして、私たちの手も開かれた。物語は作り続けられています。クリスマス献金は、ヘロデの「私物化」からの解放が、ベツレヘムの「私物化」からの解放が、ついに私にも起こったという、あかしなのです。

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by rev_ushioda | 2013-12-24 09:56 | Comments(0)

「クリスチャンですか」

カンバーランド長老教会のスタット宣教師(故人)が、かつてアメリカで大きな手術を受ける時がありました。そのとき事前に医師がこのように訊いてきた、という話を思い出しました。

医 師:「あなたはクリスチャンですか?」

スタット:「はい。」

医 師:「あなたが牧師であることは知っています。日本に宣教師として行ったこともあるそうですが、しかし、あなたはクリスチャンですか?」

スタット:「はい。イエス・キリストを主と信じています。」

医 師:「そうですか、では、大丈夫でしょう。」


クリスチャン(キリスト者)の意味は、イエス・キリストを「主」と信じるところにあります。
矢内原忠雄(1951年から57年まで東京大学総長)の『一日と永遠』という短文があります。(「嘉信」1948年)

われらの一日は永遠の中にあり/また一日の中に永遠がある。
永遠に生きる者の生涯は/怠ることなく、急ぐこともない。
勇敢に戦い、平安にいこいて/臆することなく、窮することもない。
夜は疲れても、朝には力を新にせられ/土曜日には傷ついても、
日曜日にはよみがえる。
ああ楽しいかな、イエスを信ずる者の生涯/それは永遠に生きる者の、
屈託するところなき/歓喜と希望の生涯である。

屈託するところなき/歓喜と希望の生涯! イエスを主と信じる者の、のびやかな、力に溢れた歩みを、私たちは歩ませていただきたいと、年末が近くなって思うのです。私も、皆さんに問うておきましょう。「あなたはクリスチャンですか?」

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by rev_ushioda | 2013-12-20 19:52 | キリスト教 | Comments(0)

「ただ受け取ればいい」

さっそくですが、私が経験した一つのエピソードからお話しましょう。私には結構そそっかしいところがあって、ある時、出先から家に帰ろうとしたら、お金が足らない…のですね。何と、20円が足らないのです。それでも、降りる駅まで誰か迎えにきてくれればそこで精算できるだろうと思い、家に電話をかけました。娘が出たので、「こういう訳でね、悪いけど、駅に20円持って来てよ」。 ところがそのように話していると、すっと横から出た手に、20円が乗っているではありませんか。見ず知らずの男性が、20円を差し出して、受け取れと、言っている。こちらは電話しているし、大の大人が見ず知らずの人から20円をもらうなんて予期していませんでしたから、とっさのことで戸惑っていると、その人は20円を渡して行ってしまったのです。 後から考えてみると、聖書には実はこういうことが書かれているのかな、と思います。私たちが、(自覚しているかいないかは別にして)神の国の門を通れなくなっているその時、その私たちの前に、すっと差し出された手があったということなのです。そしてその手には、非常に高価な値、十字架の傷跡、つまり、私たちのためのキリストの命が、載っていたのです。そして、聖書は、すべての人がこの命を受けている、と言っています。 私たちは、受けたものによって、改めて事の重大さに気付くことがありますが、私たちのためには実に「キリストの命」が差し出されているのです。それだけ、それほど、私たちの人生は重たく量られている、ということなのです。 私たちのために、その手を十字架にまで差し出してくださったキリストに、次に、あなたも、その人生を向けてみませんか。

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by rev_ushioda | 2013-12-07 20:10 | Comments(0)

「牧師会クリスマス」

牧師会のクリスマスは、クリスマス礼拝に続き、一品持ち寄りの楽しい昼食となる。こんなおにぎりがあった(写真)。何かうれしい感じがする。そして、その後はプレゼント交換で、何をもらったか紹介しながら近況報告。これがメインかと思うような、一人一人の近況を聞いていると、十分な時間の長さとなる。 私は、63歳になるが、いっこうに思うようにはならないと話した。思うようになったのは、先の中会会議で運営委員に選ばれなかったくらいだと。そして中山道の話である。そこを新幹線が通っているという、例の話。中山道なのに「東海道」新幹線。違和感がある。しかし車中の人間は、途中、どこを通ろうがお構いなし。目的地に行けばいいわけだ。人が違和感を感じていようがいまいが関係なく、思うようになる、そんな牧会はダメだ。思うようにならないくらいがちょうどいい。そんな話をした。
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by rev_ushioda | 2013-12-04 11:39 | Comments(0)