「久しぶりの箱根」

中会会議が終わり、ちょっと開放的になろうと、また娘のお付き合いも兼ねて、ずいぶん前から予約しておいた箱根に出かけた。
この写真は泊まった塔ノ沢温泉「一の湯」の裏山、塔ノ沢駅に行く途中である。塔ノ沢温泉はちょっと階段を登っただけでこの絶景ポイントがあるので(下の方に温泉街の屋根が見え隠れする)、箱根の中でも大好きな場所。紅葉見ごろで、娘と写真を撮りまくり? これじゃ撮影会だね、と。
夜は前線通過で大荒れだったようだが、早川の渓流沿いの宿では大きな流れの音でかき消され、雨の音はまったく分からなかった。朝はすっかり晴れ渡り、気分転換の一泊二日。忙しかった自分へのプレゼントだった。

予約する時はここが空いている週のはずだったが、あとからどんどん入って来る予定で、結局、お休みを取ると自分の首を絞めることに・・パソコン持ち込みながらの箱根であった。
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by rev_ushioda | 2013-11-27 17:33 | Comments(0)

先日の中会会議で「原子力発電に対する私たちの悔い改めと見解」という文書を決議しました。これをめぐっては色々議論がされ、特定の原子力発電に関してそのような議論があるのは当然だと思います。反論も当然あってしかるべきと思います。しかし、その前段階のところで私が驚いた発言がありました。つまり、教会はこの世と一線を画すべきで、この世のことに口をはさむことはしないはずだ、というものです。
皆さんの中に、ひょっとしたらこのような考え方をしている方がおられるかも知れません。しかしこれは、主イエスがされたことと大きく異なる考え方です。確認の意味で、改めて書いておきたいと思います。主イエスは世の権力に真っ向から立ち向かっていることは、聖書を読めばすぐ分かります。さらに、宗教改革によって私たちの教会の基礎が出来ましたが、そこでの考え方も教会と国家は分離しているからこそ教会は国家に対して助言し、警告できる、としています。分離は非常に大事です。しかし、それが目的だと受け止め、教会はこの世と一線を画すべきで、この世のことに口をはさむことはしないはずだとなると、宗教改革、特に長老主義教会のありかたから大きく外れることになります。分離の意味は、もし、国家が誤れば警告できる、というところに真意があるのです。
長老主義教会の思想を導いたのはフランスのカルヴァンという人ですが、このカルヴァン研究の日本における第一人者、渡辺信夫氏(日本キリスト教会牧師)は言います。
「彼(カルヴァン)は政治と宗教を分離させるために苦労した。だが、分離とは没交渉になることではない。・・政治の当局者が誤りを犯すことがないように、つねに助言し、警告する必要がある。政治的無関心は信仰者として恥ずべき一種の怠惰なのである。カルヴァンの感化のもとでは、政治と宗教の分離の原則は貫かれたが、しかも、信仰者がこの世の政治に積極的に責任をもつ発言をすることが通例である。」(人と思想シリーズ『カルヴァン』渡辺信夫著、清水書院1975、175ページ)
私たちは、この人の書物から改革派長老主義教会とはどういうものか、多くを学ばせていただいたと思っています。「改革教会世界共同体(WCRC)」という、カンバーランド長老教会を含む教会の世界組織がありますが、そこでは植民地問題、ナチズム、ジェンダー、経済格差、気候変動、正義の問題などを信仰、神学的問題としてとらえてきました。
カンバーランド長老教会も「信仰告白」にも、以下のような告白があります。
・選挙権行使の義務
・資格がある時には公務に就き正義と平和と公共の福祉のために働くのはキリスト者の務めである
・教会としても個人としても暴力の犠牲にさらされているすべての人を擁護する
・教会は和解と愛と正義が拡大されることを求める
教会と国家が分離されている意味は、もし、国家が誤れば警告できる、というところに真意があるのです。「原子力発電に対する私たちの悔い改めと見解」も、その上に立っているのです。

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by rev_ushioda | 2013-11-24 22:45 | Comments(2)

「仕掛け」

同じことを繰り返すことの意味がある。その同じことを繰り返すためには、しかし「仕掛け」が必要なときもある。それがないと繰り返す力を失って失速するときがある。
私たちの教会は最近、赤字会計からの脱却ということをテーマに取り組みを始めた。2か月間、アイデアを募り、出されたアイデアに対してシール投票を行い、多い得票から実行に移して行こうというものである。
出された二十いくつかのアイデアを見ながら、このように沈黙を破って行くことが大事なんだと思った。これが、仕掛けである。一つのことに皆の目が向き、関心、話題となり、作業となり、こうしてもはや赤字が解消されるかどうかはどうでもいい、一つの礼拝をまもる共同体の意識とか動きが生まれることが大事なのだ。気づいたら、礼拝を明日につなげる仲間が、そこに生まれているだろう。そしてまた、気づいたら、赤字は解消されている事だろう。
同じことを繰り返すためには、こうして「仕掛け」が必要なときもある。

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by rev_ushioda | 2013-11-17 22:53 | Comments(0)

3年前から、礼拝でマタイによる福音書を読み始め、今日が最後になります。まる3年間かかって、読んできました。3年と言えば、おそらく何でも起こるのです。家族を天に送った人もいました。その反対に、家族が増えた人もいます。洗礼を受けて天に国籍を作った人もいます。病を得た人もいますし、事故や、自然災害に遭った人もいます。2011年には、東日本大震災がありました。原発事故によって、故郷を追われた人も多くいます。教会は、高齢化、引っ越しなどで礼拝者が激減し、仲間は大きなショックを受けています。3年というのは、何でもある(起こる)年数なのです。
その間、この福音書を読み続けたということには、どのような意味があるでしょうか。はっきりした答えがあります。人生のどの場面にも、語る言葉をもっている、ということです。
私が牧師になって初めて葬儀に直面した時、人の死に際しても語る者であった、ということを、うかつにもあまり考えて来なかったことを思い知らされました。普通は「このたびは、・・・」語尾を濁してもいいのだと聞いたことがあります。しかし、葬儀説教では、そうはいきません。はっきり語るのです。何を語るか。お経のような言葉ではありません。遺族と仲間たちに向かって、聖書をもって、慰めと希望を語るのです。聖書は、人の言葉が沈黙する時にも語り続けるものなのだと、牧師になってから、思い知らされたのです。
この3年間、いろいろなことがありました。だからといって、聖書が沈黙した日は一日もなかったのです。その都度、聖書の言葉は語りかけ、慰め、励まし、勇気づけ、立ち上がらせてくれた、と言えるのではないでしょうか。聖書は、人生のどの場面にも語る言葉をもっている、ということを私たちは学び取ることが出来たのです。いままでそうであったように、これからもそうです。聖書は、沈黙しません。この3年間でそのことを経験した私たちは、どうかこれからも一緒に、語り続ける聖書の言葉に聞いて行く、良き仲間であり続けたいと思います。

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by rev_ushioda | 2013-11-15 22:25 | Comments(0)

「枝おろし」

気分転換には効果てきめんだった。枝おろし作業のことである。
我が家には2階の屋根に届く大きな木、樫、タイサンボク、ヒマラヤスギ、ヒバなどが8、9本ある。この枝下ろしが毎年、問題である。植木屋さんに頼むと、年間13~4万円もかかる。今まではそうするしかなかった。
少し前に工具を購入したことを書いたが、この調子がすこぶる良い。電気ノコギリで枝おろしする。非常に具合がいい。木の上で、片手を伸ばした先の細い枝、太い枝、とにかく片手で切り落とせる。そして、落とした枝はシュレッダーで粉砕していく。結構太めの枝でも、この機械は、葉が付いたままの枝をばきばきとチップにしていく、この気分の良さ。そうだ、気分転換だ。最近、月曜日の午前中は、木に上り、枝をおろしては粉砕して、スカッとしている。最初体全体が痛かったのが、2週目からは痛くなくなった。体を動かすので、運動不足にも効果がありそうだ。
持つべきは、工具だった。ノコギリでギ~コギ~コとやっていたら日が暮れる。枝の処理をもたもたやっていたら、夜になる。翌朝はごみ置き場は枝の山。紙を貼られて置いて行かれ、あたふたするのが関の山。しかし、今は一瞬の処理でチップになり、庭にばらまかれている。

before / after
手前は枝おろし前、奥が枝おろし後の木。
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(後の写真は、後日掲載)
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by rev_ushioda | 2013-11-12 18:00 | Comments(0)

「成長感謝礼拝」

礼拝堂の後ろの一本の柱に、すばらしい記録が残されていることを、皆さんは御存じでしょうか。I さんが付けている子どもたちの成長の記録(背丈)です。
そして、2階の子どもの部屋には「主の祈り」が手書きで書かれていますが、子どもたちが自分で書いたその一番下に、教会に来た子どもたちの名前が書かれているのです。子どもたちが、教会で出会った子どもたちの名前を書いたのです。これは、子どもたちの、仲間に対する祈りではないでしょうか。

さて、私たちの教会では、毎年、「七五三」に近い日曜日に「成長感謝礼拝」を行います。世の中では、この時期、3歳になれば男女の子どものお祝いをし、5歳は男子、7歳は女子のお祝いが続きます(いずれも数え歳のようですから実際は1歳早まります)。「七五三」ともなれば、男の子も女の子も正装して神社に「お参り」するという光景が見られます。しかし教会では、7、5、3歳に限らず、どの年齢の子どもも日々イエスさまの祝福をいただいていることを感謝して、毎年、成長感謝礼拝をささげているのです。
普通の生活において、親たちが、子どもを祝福の場に連れて来ることは大事なことです。主イエスも「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(マルコ10:14)と言われました。
子どもの成長を、何よりも主イエス・キリストが祝福してくださるのです。そして、そこにいる大人たちが子どもを喜び、祝福する場所に、親たちが自分の子どもを連れて来るということは、とても大事なことです。いつもは教会に来ていない家庭であれば、1年ごとでもいい、そういう時を大事にしてほしいのです。子どもの祝福を人任せにしないで、親自身が教会に来て、祝福の言葉を聞いてほしいのです。教会では、子どもを連れてきた家族だけでなく、大人たちが周りにいて、柱に記したりもして、皆で、子どもの成長を感謝しますが、そのような大人たちの祈りの中で、子どもたちは成長して行きます。
「サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった。」(サムエル記上 2:26)

毎年、成長感謝礼拝では、お菓子の詰め合わせと、子どもたちの写真を入れた2か月カレンダーをプレゼントしている。
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by rev_ushioda | 2013-11-11 13:05 | Comments(0)

そろそろ、神と教会、人のために、「キリスト者免許」を使う時が来たのではないでしょうか。
今までは、自分のために聖書を読んできました。心の葛藤を整理する必要もありました。親子の課題、生活の課題もありました。そのような中で教会に導かれ、意を決して洗礼も受けました。転会してこの教会の会員として歩み始めました。こうして今、洗礼の印は、確かに私のために慰めとなり、希望となりました。依然としてまだまだ解決しなければならない課題は、あります。しかし、たぶんそれは、一生の課題なのでしょう。洗礼の恵みは、同じ課題の中にいても、今までと違った視界を開いてくれます。今までと違った取組みの仕方が始まりました。
さて、この辺りで次のステップを踏む時を迎えたのではないでしょうか。一歩踏み出す時はまだ先かと思っていたら、今なのではないでしょうか。「いつやるの? 今でしょう!」この流行語は、なかなか味わい深いです。神学的なテーマがあるからです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と主イエスから言われた人たちは、「すぐに・・従った。」とあります(マタイ4章18節以降、ほか)。後ではありません。今です。いかにつたない歩みであろうが、そこに教会ができたのです。
イエス・キリストに従うということは、自分のためではなかったことに思いを向けましょう。「人間をとる」のです。そのために建てられた教会に仕え、教会の働きに仕えるのです。そのことのために、私たちは洗礼を受け、「キリスト者免許」を持っているのです。そうなると、礼拝に出るのも、自分一人のためではありません。礼拝で私の存在、私の声掛けを必要としている、人のためです。聖書を読むことさえ、人のため、となるのです。人といのちの言葉を語り合うために聖書を読むのです。災害で苦しむ人がおられます。平和を破壊された人がいます。その人のために、今、手にしている「キリスト者免許」は、どう用いられるでしょうか。政治が平和や信仰を脅かしていたとき、主イエスは真正面から向き合いましたが、弟子たち(私たち)はこの世のことにそっぽを向いていてよいのでしょうか。私たちにはどのような「今日の運転」が求められているのでしょうか。

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by rev_ushioda | 2013-11-01 11:56 | Comments(0)