「大島の災害」

台風26号のための土砂災害で、伊豆大島、元町で甚大な被害が出た。10月16日のことであった。2週間が経つ。
教会員の一人が大島元町出身であるが、その後、お父さまと、妹さん2家族が住んでおられることが分かった。お話を聞いて行くと、津波の心配はあった。しかし、山からの土砂災害は考えていなかったと。ご実家は、もし今のところに引っ越してなければ、流されていたところにあったそうである。その家に住んでおられるお父さまは、無事ではあったが、災害直後に心筋梗塞になられ、一時、周りの人はもう、なくなったと思ったそうだが、幸い一命はとりとめ、以後、病院のお世話になっている。
一人の妹さんのお宅は、窓を開けたら土砂が家の周りを流れているので必死で二階に逃げたが、結局、床下まで土砂で埋まった。土砂は家族でかき出したが、あの時の怖さが焼き付いて、今になって自律神経に変調があるらしいとのこと。
もう一人の妹さんの家は特に被害はなかったが、しかし危険区域に指定されたため、今後、引っ越しをせざるを得ないとのことだ。
支援も、ボランティアとか、東日本大震災の時のような盛り上がりがない。後から聞いた話では、支援物資も、必要としている人のところには届いていなかった、とか。島の人は、良くも悪くも、人に迷惑をかけてはいけないという思いが強いらしく、愚痴は何も言わないそうだ。ぐっと感情をおしこめている、と。
知り合いがいなければ、災害の実情はなかなか分からない。いや、本当は現地に立たなければ何も分からないことは、東北に何度か行って、感じたことである。

今、クリスマスに向けて何かプレゼントができないか、考えている。
FNNニュース

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by rev_ushioda | 2013-10-31 07:17 | Comments(0)

「植木の処理」

母親が電動のこぎりを買ってくれと言ってきた。家の周りのことが気になって仕方ないらしい。
母親は、95歳である。昨年、心不全で2度入院したが、その後は元気である。ただ、耳が聞こえないからと、それまで休まなかった教会の礼拝には行かなくなった。病院通いはするが、体は動く。家絵の周りの低木の手入れを盛んにしている。もちろん、電動のこぎりはとうてい無理で、危ないからダメだと言った。

ところで、我が家には屋根まで届く大きな木が何本かある。処理に困っていたが、もっと早く買っておけばよかったという優れ物に出合った。一つは、落としたその枝を軽々と粉砕してチップ状にしてくれるシュレッダー(粉砕機)。取り扱いが簡単で、音も静かというところがいい。25ミリは問題なくクリア。こんな太い枝でもいいの?という感覚。今までは枝を束ねてごみに出していたが、チップにしたものは、土の上にばらまいておけばよい。
もう一つは、先ほどの電動のこぎり。自分用に買ってみた。上のシュレッダーと同じく、ネットでは評価(口コミ)が出ているから、失敗しないためにまずそれを見て、この手のものでは一番高かったが購入。他社にはないAフレーム付。ザリガニみたいな形だが、これもまた、非常に使い勝手がいい。

問題は、木の枝を落とすには登らなければならない木があるわけで、今日は久しぶりに時間が空いたので一日その作業をしたが、しかし2本目までで体が動かなくなり、リタイア。足腰手足全部が、くたくたになった。例年、植木屋さんに頼んでいるが、日頃、運動不足の私には、やはり全部 自分でするには限界がある。それでもたまにこうした作業をするのは、健康的に(精神的に?)良いものだ。

(後日談 : 数日間、筋肉痛に悩まされる結果になった。)

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by rev_ushioda | 2013-10-28 21:10 | Comments(0)

「赤とんぼ」

皆さんは、「赤とんぼ」という童謡はお好きでしょうか。かつて、NHKが行ったアンケート「明日へ残す心の歌百選」(回答数66万通)で一位に選ばれたのが、「赤とんぼ」、2位が「♪うさぎ追いし、かの山」で始まる「ふるさと」だったそうです。
この代表的な日本の童謡や唱歌ですが、これらの歌の誕生の過程には賛美歌、そしてクリスチャンが深くかかわっていたということは余り知られていません。 「赤とんぼ」を作詞したのは三木露風という人ですが、彼は両親の不和から、祖父に育てられています。それでこの「赤とんぼ」の1節から3節までは、自分の母親と「姐(ねえ)や」との思い出が歌われています。辛い青春時代でしたがやがて、彼はトラピスト修道院の国語教師として数年間を過ごすことになるのです。その修道院の生活を通して、実際、彼は今まで引きずってきた悲しみをいやされる経験をしたようで、大正11年、33歳でキリスト教の洗礼を受けてクリスチャンになっています。そして、この「赤とんぼ」が作られたのは洗礼の前の年、洗礼を真剣に考えていた時のことだったのです。最後の4節に「とまっているよ竿の先」とあります。赤とんぼが止まっているのは竿の先ですが、この言葉の中に、彼は彼自身、今ようやく羽を休める場所となった竿、つまり、キリストの十字架を表現したのでしょうか。
この詩に曲をつけたのは、よく知られた山田耕作。彼の父親は何と牧師だったのです。お姉さんも宣教師と結婚しています。山田耕作は母親の背中で賛美歌を聞きながら育てられたわけで、その曲に賛美歌の影響が濃いのは確かのようです。
また、「ふるさと」をはじめ「もみじ」「春の小川」などを作曲した岡野貞一という人は、キリスト教会で40年間オルガニストをつとめたクリスチャンでした。このような人たちの聖書やキリスト教への思いによって、今、私たちが日本の心の歌として口ずさむ童謡、唱歌が生み出されていったのです。キリスト教は、私たちの感性の中に自然と馴染んでいるに、違いありません。

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by rev_ushioda | 2013-10-25 11:09 | Comments(0)

作家であり精神科医でもある加賀乙彦氏は、ある日、遠藤周作氏に言われました。「きみはキリスト教を無免許運転しているね。」洗礼を受けることなく小説の創作とキリスト教とを使い分ける、煮え切らない自分を言い当てられた加賀氏は、「よし、それなら免許をとってやろう」と思ったそうです。
半分冗談の言葉です。しかし、洗礼を「免許」というのは、面白い発想だと思いました。ただしその場合、ペーパードライバーはありません。私たち、洗礼を受けた時の「キリスト者免許」は、日々の生活においてちゃんと使っているでしょうか。キリスト者を運転(?)させている/信仰を働かせているでしょうか。

ここで、今述べた主題の大きさに反して今日の話はいきおい小さくなるのをゆるしていただければ、まずは日曜日のことを考えてみたいと思います。

〇教会に来て、教会周りの雑草、ゴミが気になったことはありませんか?誰が掃除するのでしょうか。〇外に説教題が張り出してあります。帰りがけに次週のものに張り替えるのは、誰でしょうか。〇受付には人がいますが、出来る人でローテーションしているようです。そのローテーションに加わるのは、誰でしょうか。〇礼拝堂に入ったとき、椅子の並びが気になりました。では、人が座りやすいように整えるのは、誰でしょうか。〇備付聖書、讃美歌のページが折れ、破れていたり、しおり紐が飛び出ていました。直すのは、誰でしょうか。〇今日読む聖書個所に、しおりを挟んでおいたら皆が開きやすいと思いますが、それをするのは、誰でしょうか。〇聖書を開けない人がいます。声をかけるのは、誰でしょうか。〇礼拝中にエアコンが強すぎる時、温度調整をするのは、誰でしょうか。〇礼拝中に昼食のためにガス釜のスイッチを入れるのは、誰でしょうか。〇週報に折込みされている讃美歌の紙を礼拝後に集めるのは、誰でしょうか。〇礼拝後、2階の部屋で幼児と一緒に工作しながら「教会に来れて良かったね」と、お話するのは、誰でしょうか。〇散らかった子どもの部屋を片付けるのは、誰でしょうか。〇週報を毎週1部づつファイルしていきますが、それをするのは、誰でしょうか。〇休んだ人の週報トレーに週報を入れ、または届けるために持ち帰るのは、誰でしょうか?〇最後に植木鉢に水やりをして帰る人は、誰でしょうか。

日曜日だけでも、これだけ「運転」の機会があります。礼拝は「免許を持っている」人の、一人一人の手が必要な場だったのです。ペーパードライバーではなく、礼拝を一緒に「運転」していきましょう。礼拝を、皆で作っていきましょう。

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by rev_ushioda | 2013-10-24 18:41 | Comments(0)

洗礼を受ける時、自分の家はお寺に墓地があるとかいうように、墓地のことを気にされる方が多いのです。たとえそれが自分とは関係のない信仰であったとしても、家も、個人も、墓地に結ばれているのです。それについてはいろいろな考えがあると思いますが、改めて私たちキリスト者の信仰を考える時、葬儀(葬式)とか墓地とかに結ばせて考えることは、意外と大事なことだと思い至ります。
信仰は、その時だけということはあり得ません。信じるということは、生涯、続かせるものです。だからそのために準備の時を十分に取りますし、洗礼を受けても、実を言えば、そこからが求道なのです。そして、終に信仰の道の至るところが死であり、葬儀の営みとなります。当然、葬儀(葬式)もまた、この信仰で行い、特別なこと(転居など)がなければ、洗礼を受けた教会で葬儀を執り行うのです。逆に考えれば、自分の人生の始末をこの信仰、この教会でつける、という覚悟をもって洗礼を受けることになります。そこのところがふらふらしていてはいけない。葬儀を出す覚悟です。おのずと心が引き締まるというものではありませんか。
信仰はどこも同じ、どこでも葬儀は出せる、という考えがあるかもしれません。確かに、転会手続きがありますから、そう言えるのです。しかし、それは結果であって、最初からそのように考えるべきではありません。この教会で葬儀を出す、と覚悟してみてください。自分の葬儀から、今の自分の信仰の歩みを振り返ってみてください。果たして、今の自分がどのように見えてくるでしょうか。週に一度の礼拝とは、そのような覚悟をもって「必死で」(意味は、死を決して、全力を尽くして)まもるものなのです。
自分が自分をうれしく振り返ることができるような、自分をほめてあげることができるような、今日の信仰の歩み、礼拝への道をぜひ、作りたいものです。
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by rev_ushioda | 2013-10-18 10:23 | Comments(0)

「義兄逝く」

昨日14日、富士霊園で行われる召天者記念礼拝に出かけようとして早目に起きたとき、義兄危篤の電話。

すぐに病院に駆けつけ、様子をみていたが、大丈夫だろうと昼過ぎにいったん帰宅したが、その間に亡くなった。前にもこういうパターンがあったな、誰の時だったかと思いながら、遺体が運ばれる自宅に直行した。義姉とその従妹、そして私たち夫婦だけしかいない家に、義兄の無言の帰宅であった。

妻は高校生の時に父親と死別、8年前に長兄、今年になって母親と死別。今回は次兄である。長兄をなくしたあと兄嫁が実家を手放しているので、家族と過ごした家も、今はない。6人いた家族は、弟と二人だけになった。ずいぶん寂しい思いであるに違いない。

一時帰宅する直前、ベッド横に家族(義姉、息子)がいたとき、一緒に感謝の祈りをした。義姉の話では、看護婦さんが「どうですか。」と問うと、義兄はいつも「快適。」としか言わなかった。調子が良くない時は無言だった。話すといつも「快適。」と言っていたと聞いたからである。過ぎ越し方の感謝、家族を戴いたことの感謝、そしてこれからのことを神に委ねる祈りをした数時間後に、逝った。

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by rev_ushioda | 2013-10-15 22:34 | Comments(0)

「初めに戻らなければ」

昔、新聞配達のアルバイトをしていた時のことです。自転車を止めてポストに向かって歩き始めた直後、嫌な予感がして後ろを振り返ったら、その目の前で自転車が新聞の重みで勝手に動き出して、倒れてしまいました。運悪く、そこにドブがあり、悪いことは重なるものです。ドブには水がたまっていて、かなりの新聞がそのドブの中に放り出されてしまいました。これは困ったと思いました。
そしてそのあと、私のしたことを皆さん、想像できますか。そのあとの一軒一軒をまわって、「すみません、こういう訳です」と言って、謝っのです! 店の方では、「潮田の奴、いやに帰りが遅い」という訳で、心配して先輩が見に来たら、私がそんなことしているのですね。「何やってるんだ、こういうことのために、店には余分があるんだ。すぐに戻らなければだめじゃないか!」と、叱られ、呆れられてしまったのでした。ただ真面目に一生懸命やればいいのではない。自分が結び付くところ、戻らなければならない所に戻らなければ、真面目にやっても空しくなってしまうことがあるのです。
聖書の初めに何が書かれているか、ご存知でしょうか。「初めに、神は天地を創造された」これが、聖書の1行目です。「初めに、神は天地を創造された」─ 「初めに」というのは聖書では「大事なこと」という意味で、「本当に大事なこととして、神は天地を創造された」。逆に言えば、天地、そこに生きる人間は、これを造られた創造者(神)と結びついている。これが大事なことだ、というのが聖書の冒頭の言葉なのです。しかし、先ほどの私の失敗のように、人は自分が結び付くところ、戻らなければならないところに戻らないで、ただ一生懸命やろうとしています。結局、何をやっても空しくなっていくのではありませんか。あなたも、あなたの原点である造り主、神に、戻って行ってほしいと、心から思います。


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by rev_ushioda | 2013-10-13 22:47 | Comments(0)

昨日、成年後見人(行政書士)の皆さんと、研修の時を共にさせていただいた。
私は過去、電話のリスナー研修などの場に出張したことは多いが、行政書士という同じ職業の方々の中での講演は初めてであり、しかも男性が多数を占める60人もの人数の研修というのも初めてで、多少、緊張を強いられる場にお招きいただいたことになる。
他方、後見制度にかかわる数々の研修を十分されてきている行政書士の皆さんにとって、今回のテーマが「傾聴の姿勢」という、いつもとは違う内容であったということであるが、一日のお仕事を終えてからの6時15分にもかかわらず、熱心に集まって来られた。やはり人とかかわるお仕事なので、このテーマに関心があり、期待してやって来られたと思うと、勢い、用意した時間が足らなくなる。カットしながらお話を進めたが、それでもいただいた時間枠2時間半をたっぷり使ってしまい、用意したつもりの質疑応答の時間が、なくなってしまった。
講演後、近くのお店を借り切っての懇親会にもお付き合いさせていただいたが、個人で事業所をお持ちという皆さんにしては和気あいあいの雰囲気で、日頃の良いお付き合いの関係が知れるというもの。いろいろお話を伺い、私としては今回、貴重な経験をさせていただいた。そして、この仕事に携わる皆さんのお働きが実りあるものとなるように、何よりもこの皆さんに支援される被後見人の皆さんの人生の祝福を祈りつつ、皆さんとお別れした。

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by rev_ushioda | 2013-10-09 22:25 | Comments(0)

アウシュビッツといえば、誰も一度は聞いたことがあるでしょう。第二次世界大戦の時、ヒトラー率いるナチスドイツが、罪もないユダヤ人を強制収容し、600万人もの人々を虐殺した場所が、アウシュビッツです。ここで生き残った人はきわめて少数ですが、その一人に、ビクトール・フランクルという人がいます。フランクルの家族は収容所で餓死、または毒ガスで殺されますが、フランクル自身は、強制労働と極度の栄養失調によく耐えてこの収容所から奇跡的に生還したのです。この人は精神医学者でした。それで後に自分の体験を書いた本を出版しました。「強制収容所における一心理学者の体験」という本で、日本では「夜と霧」という題で知られています。そこでこう言っているのです。「助かる見込みがない状況の中では、残りの人生に何か期待できるものを探してみても、絶望しか発見できないだろう。考え方を変えてみよう。私が、残りの人生に何かを期待するのではなくて、残りの人生が、私に何かを期待しているのだ。」

残りの人生が、私に何かを期待している。それによって、死に向かう苦しみの中でさえ、なお生きる意味を見出すことができる。残りの人生が、私に何かを期待している。それによって、苦しみと前向きに向き合って、苦しみを背負って生きることもできるようになる。そう言ったのです。

ところで、小椋佳作詞、作曲の愛燦燦には、こういう言葉があります。
「雨 潸潸(さんさん)と この身に落ちて/わずかばかりの運の悪さを 恨んだりして/人は哀しい 哀しいものですね/それでも過去達は 優しく睫毛(まつげ)に憩う/人生って 不思議なものですね」
「風 散散(さんざん)と この身に荒れて/思いどおりにならない夢を 失したりして/人はかよわい かよわいものですね/それでも未来達は 人待ち顔して微笑む/人生って 嬉しいものですね」
「愛 燦燦(さんさん)と この身に降って/心秘そかな嬉し涙を 流したりして/人はかわいい かわいいものですね/ああ 過去達は 優しく睫毛に憩う/人生って 不思議なものですね/ああ 未来達は 人待ち顔して微笑む/人生って 嬉しいものですね」

過去は変えられない。しかし、その「過去たち」が「優しく睫毛に憩う」のです。その意味が変わった、と。現在も「風 散散と この身に荒れて/思いどおりにならない」のです。「それでも未来達は 人待ち顔して微笑む」のです。ここには、未来から自分を見つめる視点がある。残りの人生が、未来達が、私に期待している、と。

ここで、言い替えましょう。雨に潸潸と打ちたたかれた私であろうと、風 散散と荒れている私であろうと、神こそが、私に期待しているのです。「それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ29章11節)であるならば、神に向けて、仲間(教会)と共に、応答的一歩を踏み出しましょう。今日は、残りの人生の初めの日。

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by rev_ushioda | 2013-10-04 00:07 | Comments(0)