中会では、毎年、宣教について考える「ミッション・サンデー」を実施しています。パンフレットを用意して年度ごとのテーマを紹介し、礼拝においては、共同の祈りを共に祈ります。

昨年から、この日に合わせて、「教会」から「伝道所/伝道教会」の礼拝に仲間を送り、交わりを共にしながら、規定で言うところの「教会」にまだ至っていない小さな群れを支援していこう、という取り組みがなされています。今年もそれぞれの「伝道所/伝道教会」に姉妹教会から仲間たちが派遣されていますが、私たち「泉伝道教会」にも、一番近くの希望ヶ丘教会の仲間たちが来てくださっています。差し出された祈りの手を感謝して受け止め、私たちも、「伝道教会」から「教会」(教会員30人以上が目安)になる日を、切に祈り求めたいと思います。

ところで、今日、潮田牧師は千葉県にある市川グレース伝道所に御言葉の説教のために出かけています。潮田牧師は、同伝道所の運営委員であるためです。
パウロは言います。「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」
受けている間は出かけない、のではないのです。受けつつ、足りなくても出て行くのが私たちなのです。小さな教会が支え合っている姿が、良い証につながれば幸いです。そういえば、アメリカ、ケンタッキー州で佐藤岩雄牧師が開拓伝道している「ルイビル日本語教会」にも、先週、1週間早かったのですが、カンバーランド長老教会の総会(GA)出席のために渡米した4人が訪問し、礼拝を共にしました。どんなにか皆さん、励まされたことでしょうか。さらにブラジルのマッタ・デ・サン・ジョアン伝道教会にも、来月、今後のことの話し合いのために唐澤牧師が訪問することになっています。ブラジルの友たちが日本からの訪問を楽しみにしています。
このようにいろいろな形で信徒、牧師を問わず訪問し合い、励まし合う動きの中に、中会の支援体制がよく現われていて、とてもよいと思います。宣教は、このような動きの中に進展することは、聖書でも、使徒言行録やパウロの手紙が示している通りです。足元はここ、泉教会にしっかり置いて(ここがふらついていてはダメです)、その上で、私たちは助けを必要としている教会(伝道所)のために、積極的に出て行きましょう。中会は、一つの教会として、そのようなことが自由に出来るシステムを持っているのです。

共同の祈り

司 式 者 天地創造の主である神さま、地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていたように、
一  同 聖霊よ、わたしたちに臨んでください。

司 式 者 わたしたちの冷えた心にも、キリストの愛が熱く燃えるために、
一  同 聖霊よ、炎のように来てください。

司 式 者 争いや不正によって荒れ果ててしまった町の空にも、鳥が、自由にはばたくように、
一  同 聖霊よ、鳩のように来てください。

司 式 者 木の枝が激しく揺れ動く嵐の日のように、今、教会を揺り動かして、教会が御言葉(みことば)を力強く語り、証するため、
一  同 聖霊よ、風のように来てください。

司 式 者 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受け、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と主イエスは言われます。
一  同 聖霊よ、わたしたちをあなたの証人としてください。

司 式 者 こうして使徒パウロは、「福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだ」と確信して、トロアスから船出しました。
一  同 わたしたちを、今、宣教のトロアスに立たせてください。

司 式 者 わたしたちは、御言葉を証しする、新たな祈りの道に進み出て行きます。主イエス・キリストの御名によって、
一  同 アーメン。

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by rev_ushioda | 2013-06-21 21:02 | Comments(0)

「自分の足元は・・・」

私は、【あ】伝道所の運営委員をしている関係で、同伝道所で会堂建設についての話し合いがあるため、昨日の午後、自分の教会の礼拝が終わって食事を済ませ、仲間の皆さんを残して早々に出かけた。午後2時からの時間設定であるにもかかわらず、前向きな意見を持つ皆さんと実りある話し合いが出来、感謝であった。
翌日、つまり今日の月曜日、私はまた【い】伝道所の運営委員でもあるので、月に一度の委員会があるために、朝から東京を越える中距離の電車の旅。こうして出かけるのは気分転換になると思っているが、さすがに朝は混んでいて東京を過ぎるまでは座れなかった…来年度予算などもあったため、3時間越えの会議となって、月曜日でもあるし、さすがに帰路は疲れたかな…
夜は、ふたたび【あ】伝道所の、これも月一度の運営委員会がある。こちらも予算や活動計画を練ることになるだろう。
さて、今度の日曜日はミッションサンデー。私は【い】伝道所の運営委員の関係で、再び、東京を越えて同伝道所に向かう。今度は委員会ではなく、礼拝の説教のためである。
昨年から、ミッションサンデーは「教会」から「伝道所」「伝道教会」に人を送って一緒に礼拝しよう、という企画をしている。私の教会は、実は何とまだ「伝道教会」であるので、当日は5人くらいの皆さんが励ましに来てくださる。しかし私は、【い】伝道所に出かける。それもいいだろう。小さな教会同士が励まし合う姿を、見て戴きたいと思っている。

というわけで、この1週間は【あ】伝道所→【い】伝道所→【あ】伝道所→【い】伝道所での働きが続く週になったので、あえて記録してみた。年齢的に言って、このように自分の教会以外の伝道所のことにお仕えすることが期待されているのだろう。しかし、自分の教会をもういい加減に「伝道教会」から「教会」に昇格させたいものである。規定による条件は会員30人を越えることであるが、それが難しい。直前で、増えれば、また減るという、行ったり来たりを4,5年も繰り返している。

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by rev_ushioda | 2013-06-17 16:44 | Comments(1)

明日、礼拝の中で「結婚の祈り」をする。
明日は通常の礼拝であるが、最後の「派遣の言葉、祝福」の直前にそのプログラムを入れ、結婚の祈りが終わったら結婚式で歌われる讃美歌を歌い、一同、派遣されていく、という流れである。

以下、カンバーランド長老教会『礼拝指針』の要約である。

結婚は、役所に届け出る「法的」契約以上のものであると、教会は考えています。聖書によると、結婚は神と人間との関係になぞらえられています。つまり結婚は、神がそうされたように、自分を相手に与えることです。また、非利己的な愛をもって相手を愛することです。そのような意味を知るために、結婚しようとする二人は、結婚準備会を大事にするように、教会は勧めています。準備会では、次のようなことが話されます。二人が、結婚をどのように考えているか、結婚へ臨む姿勢、イエス・キリストおよび教会との関係、結婚への情緒的、経済的適性などです。
カンバ-ランド長老教会は、結婚式を礼拝と考えています。つまり、礼拝で行われる要素(聖書朗読、説教、賛美、祈りなど)はすべて結婚式にも当てはまるのです。結婚式において出席者は皆、礼拝に参加するのです。実際、結婚式が通常の主日礼拝の中で、または直後に行われるのは、事柄にふさわしいことです。

誓約の言葉は、以下のようになります。二人はこれに、聖霊の助けによって、「はい」と答えるのです。

夫となる者へ
(    )、あなたは(    )と結婚し、その夫になろうとしています。あなたは(    )が、あなたの妻になることを信実に願い、この結婚が神さまの導きであると信じています。
そこで、わたしはあなたに、誠実に言い表すことを勧めます。あなたは、聖書から教えられることを心にとめ、常にキリストに対する畏れをもって、夫としての道を尽くし、主にあるパートナーに仕え、健やかなときも、病むときも、(    )を自分自身のように愛しますか。

妻となる者へ
(    )、あなたは(    )と結婚し、その妻になろうとしています。あなたは(    )が、あなたの夫になることを信実に願い、この結婚が神さまの導きであると信じています。
そこで、わたしはあなたに、誠実に言い表すことを勧めます。あなたは、聖書から教えられることを心にとめ、常にキリストに対する畏れをもって、妻としての道を尽くし、主にあるパートナーに仕え、健やかなときも、病むときも、(    )を自分自身のように愛しますか。

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by rev_ushioda | 2013-06-15 16:50 | Comments(0)

「伝道と宣教」

俳優の松田美由紀さんが言っていました。「…私は俳優である前に母だと強く感じた。未来に子どもたちのために、生きて行く場所を残さないといけない。それが、今生きている大人の役割だと思う。」(朝日新聞6月8日夕刊)。また、歌手の沢田研二さんが「我が窮状」を歌っていますが、これは「憲法9条」に重ねた歌です。いま憲法は、改憲の動きの前でまさに『窮状』にある、と。「我が窮状/守りきれたら/残す未来/輝くよ」

生きていく場所の危機が現実のものとなったのは、原発事故によってです。今までもそのような事故があったことは聞いていました。しかし、ずいぶん呑気だったことに、ようやく2年前に皆が気づいたのです。福島から故郷を追われて来た人が、その悔しさ、怒りを涙ながらに話すのを聞き、「生きて行く場所」がなくなるという危機感を感じました。
たとえば、元気がない池の鯉を治療して、健康を回復させ、池に戻します。しかし、元気がなかった理由は、池の水が汚れて酸素が不足していたからだとしたら、どうでしょうか。「伝道」によって、一人の人が神を信じるキリスト者として、世に送り出されます。しかし、そこが汚れて酸欠状態であったら、どうなのでしょうか… 放射能で汚染されて住むことができなかったとしたら… 原発は、人間の生きる世界を奪い、いったん事故が起こったら、もともと人間のコントロールが効かないものですから、事と次第では巨大な化け物と変わり、もう、一部の地域の問題ではなくなることをはっきりと示しています。
また、今の憲法を変えようという動きがありますが、新憲法草案では基本的人権がなくなり、国民主権もなくなり、国防軍さえ謳われています。基本的人権が奪われ信仰の自由がなかった時代、私の恩師の父君は、その酸欠の社会で、殉教し、京都のどの教会でも葬式をしてもらえなかったのです。国防軍ができて徴兵制が布かれ、平和が破壊された酸欠状態の世界に、私たちの孫たちを、さあ、元気に行きなさいと、教会は祝福をもって送り出せるでしょうか。

だから、生きていく場所をしっかりと残すことを、「伝道」に対して、「宣教」(説教をはじめ、教会の働きのすべて)と言っておきたいと思います。教会は、「伝道」と「宣教」と、この両方が必要なのです。鯉が元気になること、その鯉が生きる池の水をきれいにすること、この両方が大事なように、です。私たちは、その両方に使命を与えられて、世に送り出されているのです。
ただ、一人一人、賜物や使命が違いますから、何もかも出来ません。しかし、少なくともキリスト教信仰からはこの世のことへの無関心、宣教への無関心は、生まれてこないでしょう。神は、人間に世界を正しく管理するように、言われたのですから。「産めよ、増えよ、地を従わせよ。」(創世記1:28)。

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by rev_ushioda | 2013-06-11 15:19 | Comments(0)

「息をする」

ある時、チェロを弾く方のお話を聞かせてもらったことがあります。チェロというのは、バイオリンを大きくしたような楽器です。この人はアマチュアですが、チェロを愛して、演奏会にも度々出ます。演奏していただき、その後、いろいろお話を聞かせてもらったのですが、特に心に残るお話がありました。それは、良く整備されたチェロをピアノの下に置くと、ピアノを弾いた時にチェロが鳴り出す、というのです。私は、「ああ、それは空気の振動が伝わるために起こる現象(共振)だ」と思って聞いていたら、その人は「チェロは息をしている」と、言うのです。その時、私は、そうか、この人は空気の振動くらい、わかった上で話をしている、と思いました。ピアノによって鳴り出すとき、チェロは息をしている。生きていると、この人は本気で言っていたのです。チェロを愛するとは、そういうことなんだなあと、思ったのです。

さて、神によって、あるいは聖書によって生きるというのは、非常に宗教的なこと、特別な人のすることだと多くの人が思っているのですが、神を信じるというのは、別に宗教的なことなんかではありません。神を信じて生きるというのは、私たちが息をするようなことなのです。
ピアノの下に置いたチェロが、ピアノを弾いた時に鳴るように、私たちも上から響く神の呼び掛け、と言ったら良いのですが、聖書の言葉を読んで、ああ、そうだなあ、そうだったのか、と思う。今まで間題の中をぐるぐる回っていたのに、ふと、生きることができると思う。それは、息をすることなのです。息をするというのは、人間の心にとって大事なことなのです。聖書が語りかけて来る言葉、その言葉に向かって、その言葉に引っ張リ出されるようにして、ピアノの下のチェロが鳴るように、私たちも「息をし始める」ということが起こる。その時、あなたはもっと自由になります。

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by rev_ushioda | 2013-06-08 17:02 | Comments(0)

「信仰のこととして」

憲法の話とか、最近では原発の話のよう話題は、なぜか教会では関心が薄いような気がしますが、気のせいでしょうか。そのような話は、この世のこと、ひいては政治の話というような誤解があるのかもしれません。または、聖書には、直接、そういうことは書いてないからというのも、理由かもしれません。
しかし考えてみると、平和をつくること、平和に生きることは、聖書そのものが持つメッセージであったし、現実には信仰は政治とのぶつかり合いの中で力を発揮してきたし、現代でも一人一人は真空に生きているわけでなく個々の生活の現場で生きているはずです。イエス・キリストの十字架の犠牲を知っているキリスト者は、イエス・キリストこそ平和であることを信じていますし、ですから平和という意味を、世の中が言う以上に深いところで味わい知っているはずです。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、」(エフェソ2:14)。
それなのに、「憲法9条」とか「原発」という言葉を聞いた途端、何となく遠い世界の話のように感じてしまうとしたら、それはどうしてでしょうか。難しそうだから? 政治の話だから? 話題としてはそうかもしれません。しかし、こうして飛び込んでくるテーマは、私たちの信仰とこの世の現実と結びつかせるテーマ、課題であるに違いありません。憲法9条は平和の砦でありますし、原発問題からは、あの事故以来、避難を強いられている多くの人の苦しみや涙と共に、営利目的になお原発を稼働させようとする人間の自己中心、コントロールの効かないものに手を伸ばす人間の罪が見えてきています。このような現代的なテーマを、私たちは信仰の問題として、信仰の言葉をもって前向きに取り上げてみたいと思うのです。
私は「なかわだ9条の会」の発起人の一人であり、世話人にもなっています。それは、憲法9条の「戦争の放棄」や、憲法で謳われている基本的人権は、聖書の言葉がそのように現代に翻訳されていると考えるからです。何よりも、平和や基本的人権のことは、主イエスが命をかけて回復したこととしてとらえているからです。

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by rev_ushioda | 2013-06-06 21:37 | Comments(1)

「先進抗」

以前、私は青森県の竜飛岬に行ったことがあります。当時、ちょうど青函トンネルの工事が進行中で、岬の先端に、そういうところの地形とは不釣合にちょっとした町ができていました。陸から海に向かって目を転じると、そこは津軽海峡です。海峡だからでしょうか、何か海が大きな川のように動いている、という印象を持ちました。ああ、この海の下をトンネルでつなぐのか、すごいなあ、という感じでした。
それからしばらくして、新聞に「先進坑が開通」という記事が載りました。北海道側からの試験トンネルと本州側からの試験トンネルとが海の下で繋がったというものでした。万歳をしている写真がありました。それは本トンネルではありませんが、試験トンネルがつながった以上、本トンネルは保証されたというほどの喜びだったのです。

私は、いつもそのことを思い起こします。あの津軽海峡のような海しか見ない時には、まさかその下でトンネルが掘られているなんて信じられないわけです。同じように、現実しか見ていない目には、キリストが死を突き抜けて行かれたという聖書の記事は、何のことだかわからないのです。しかし、たとえあの津軽海峡のような、渡るに困難な現実が横たわっていようが、そこに希望が見えなかろうが、キリストは私たちの中で死の壁を破って復活されたのです。先進坑を繋げられたのです。私たちが通っていく本トンネルはこれからですから、苦しみや、問題は多いでしょう。しかし、もうキリストはトンネルを貫通させているのです。もう勝負はついている。キリストは言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。このキリストと出会い、このキリストを信じていく者は、いかなる困難の中でも恐れに支配されず、不平不に魂を売り渡さず、正々堂々、歩んで行くことができるのです。泉教会で、あなたの目をキリストという先進坑に向けてみませんか。

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by rev_ushioda | 2013-06-02 08:57 | Comments(0)