「祝福を願う者の歩み」

先日、委員会が終わって帰りがけに、A牧師が「そうだ、今日、車を新しくしたんです。先生、お祈りしてください」と言われた。新車のための祈りは… 正直、いまだ、したことがない。意表を突かれた感じだが、とっさに祈った。
「この車を祝福し、この車に乗る人を祝福し、運転者を祝福してください。車中の会話が楽しいものになるように、また、どこに行くにも宣教のために用いられるように。主の栄光をあらわす車としてください。そして、事故から守られますように。事故によって誰かを苦しめたり、悲しませたりしませんように」。そう祈らなかった言葉もあるが、そういう思いで祈った。
A牧師は、教会員から請われれば新車のための祈りをするのだと言う。そういえば、私たちが共同で手がけた『礼拝書』には、住宅等完工の祈り、入居の祈りなどもある。初めて礼拝に出席した嬰児のための祈り、新成人の祝福の祈り、ずっとくだって、動物の埋葬の祈りもある。礼拝だけでなく、このような人生の折々、牧師を呼んで/牧師のところに行って、祝福を祈ってもらうことは大事なことである。もちろん自分でも祈ることだろう。しかし、牧師は祝福を祈るために遣わされた者である。
『牧会百話』という本を読んでいたら、明治時代、衆議院議長をつとめたほどの人であるが、東京から帰郷すると家に帰る前に教会に立ち寄り、帰郷の報告をしたそうであるが、もちろん牧師に祈りを願ったであろうことは言うまでもない。プライベートなことだからと言って、教会の祈りから切り離してしまうのではなく、一つ一つをそのように牧師の祈りを求める、「祝福を願う者」の歩みを、ぜひ、作りたいものである。

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by rev_ushioda | 2012-05-30 14:56 | Comments(2)

「がっかりしたよ」

「今日は、がっかりしたよ」
ペンテコステの礼拝に、主な人たちが軒並み欠席した状況に、思わず吐露された老教会員の言葉。日本キリスト教団に長く在籍してこられた。福音派の諸教会は概して教会暦をそれほど重んじないが、日本キリスト教団は、至極当然であるが、3大節(クリスマス、イースター、ペンテコステ)は大事にするという伝統がある。普段、礼拝を休んでいる人も、良くも悪しくも、3大節礼拝だといって出席するのだ。
それと比して、先の突き上げる思いとなった。それぞれ欠席せざるを得ない事情は、私は、よく分かっている。しかし、そのこぼれる一言の前に、一人ひとりそれぞれの事情があることを説明などできなかった。「がっかり」という思いに対して、返す言葉もない。
礼拝は、もちろん神のためであるが、自分のためにという意味もあるだろう。しかし、また、仲間のために、という意味もあるのだ。礼拝に行って、仲間と会う。どんなに励まされて帰ることだろうか。それが、期待した3大節の礼拝に主だった仲間が軒並みいない現実。老教会員の失望は推して余りある。
仲間をがっかりさせてはいけない。礼拝は、守るものなのだ。

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by rev_ushioda | 2012-05-29 08:56 | Comments(3)

「ペンテコステを祝う」

どこの教会でも、ペンテコステの祝い方には苦労しているようです。ペンテコステの祝日について、聖書の言葉は、次のようになっています。

「五旬祭(ペンテコステ)の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2章1~4節)

さて、私たちは、これをどのように祝いましょうか。教会のお祝いの一つを、皆さんだったら、どう祝うのが良いと思われますか。
ペンテコステは、上の聖書の記事から、言葉が世界に開かれた日だということが分かります。そこである時、運動会で飾るあの万国旗が「世界」をイメージするためにふさわしい、というわけで、広場に万国旗を飾り、「ペンテコステ運動会」なるものを計画したことがあります。学校の校門のところで「ペンテコステ運動会があるよ!」という案内しただけで、30年も前のこととはいえ、50人も60人も、よく集まったと思います。集まるほうも集まるほうですが、計画するほうも計画するほうで、近くの幼稚園の園庭を借り、さらには幼稚園の小道具なども借りて、このようなことを2、3回したと思います。
その他、宣教師をお招きして、宣教について考えたりすることは、しばしばしてきました。
今、泉教会では、「炎のような」とあるので、毎年、この日は赤いリボンを胸に付け、赤いものを身に着けてくる礼拝を、続けてきました。「霊」は別のところで「鳩のように」主イエスにくだって来たということから、子どもたちに、鳩のクッキーをプレゼントします。また、礼拝の中で「赤いバラの花びら」を、子どもたちが、思いきり、礼拝堂に巻きます。子どもたちにとって楽しい時です。大人も、思わず、上から舞い落ちてくる赤いバラの花びらを見上げます。あの時も、このようであったのか、と思います。
今年は、午後、できる人で町に出て、駅前でトラクトを配ろうとしています。
ペンテコステは、キリスト者、そして教会の大事な祝日なのです。ここから何事か始まるような、そんな一日としたいと思います。

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by rev_ushioda | 2012-05-19 08:09 | Comments(0)

結局、私の神経痛は収まっていないわけで、
3月27日 内科受診。痛み止めの薬「カンファタニン」と湿布薬を処方
4月27日 ペインクリニック受診。「リリカ」2週間分処方
5月16日 整形外科受診。レントゲン、異常なし。1週間後にMRI検査予約。「リリカ」1週間分処方
という経緯である。薬を飲んでいるときは、痛みが来ないので安心していられるが、薬が切れると、急に不安になる。痛みが来ないようにと、恐る恐るの行動しかできない。予期不安だ。痛みは、気持ちを支配するようである。外部からの依頼を受けていた青山学院大学と和泉短大での二つのチャペル説教をお断りした。
さて、神経痛と共に例によって風邪もひく、歯の治療も再開、胃も張っている感じが抜けず、このところ頻繁に病院通いである。健康がちょっと遠のく感じがする。

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by rev_ushioda | 2012-05-18 06:54 | Comments(5)

「女性の集い」

森祐理さんをお招きして、中会女性会が開かれた。前半は通常のプログラム。後半が1時間半のコンサート。森祐理さんのすばらしい歌と、心から溢れる信仰の証に、素直に感動、涙が溢れた。会場も、テアトルフォンテで良かったこともあるが、この方はすばらしい賜物をお持ちだと思った。
今回、会場教会として会場を準備したり、プログラム準備、前半は司会者を立てるなど、トラブルもあっていろいろ大変であったが、すべてを感謝して閉じることができた。

録画はないが、以下、「君は愛されるため生まれた」。雰囲気の一端がわかるYouTube そしてサインが終わってそこにいたスタッフと共に1枚。(ぼやけているのはわざとでなく、携帯で撮ったから。でもちょうどいいですね)



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by rev_ushioda | 2012-05-17 07:14 | Comments(2)

和泉短期大学の後援会役員をしているが、活動は、いつも役員だけになっている。会員は卒業生父母が毎年70人ほど加入してくれるが、卒業時になかば「儀礼」として会費を納入するだけで、活動への参加はない。
後援会活動を維持するためには、新役員を補充しなければならないのに、これも発足時のメンバーのままである。辞めたくても(体調不良とか、教会の事情で)、これでは辞めるに辞めれない。そうは言っても病気になれば、また仕事の都合とか、親の介護とかが出てくれば役員会に出て来れなくなるわけで、役員会がこれでは先細りするしかない。他大学ではどのようにしているのだろうか。良い知恵がないだろうか。
今日、総会前の役員会があって、今年の事業計画の一つに被災地へのボランティアが盛り込まれたが、例によってまた、いつものメンバーであろう。私は、今年は体調不良の中で、行くことは難しいだろう… 

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by rev_ushioda | 2012-05-11 22:03 | Comments(0)

「納骨・記念会」

納骨

納骨(埋葬)は、いつ行わなければならないということはありません。気持ちの整理がついた時に行うのが良いでしょう。牧師が埋葬(納骨)礼拝を司式しますので、その時に納骨します。
ところで、イエス・キリストのお墓は、ありません。死後、埋葬されたのですが、墓には留まらず、復活されたのです。ですから、もしこの方に属するなら、私たちにとっても、墓地はそこに“留まる”場所ではなくなります。復活の主と共に、天にこそ留まるのです。納骨後、記念のためにお墓を訪れる時、私たちは、キリストの復活が墓から起ったことを想起します。墓地は、私たちが「神に向けて生き始める場」になります。
納骨(埋葬)後は、ご自宅に写真を置いて記念するのもよいでしょう。もし希望するなら、自宅用のキリスト教祭壇もあります。繰り返しますが、何を用意するにしても、記念のためであり、礼拝の対象ではないことは誤解のないようにしなければなりません。
お墓には、折あるごとに訪れ、お花を飾り、先に述べたキリストの復活と天の御国を思うときにします。

記念会

最近、仏教では火葬から帰ってすぐに「初七日」の法要を済ませることが多いようです。この初七日、四十九日というのは、死者が7日目ごとに冥途の王の前で裁きを受け普通は早くて7日、遅くて49日目までに死者の運命が決まるので、それに合わせて法要をすることで、死者ができるだけ良い運命に行けるように、生きている者が「追善」するわけです。
しかし、死を前にした人に、主イエスは云われました。「あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいるであろう」。7日目でも、49日後でもなく、その日、死と同時に、その霊は神の御腕の中に移され、永遠の安息を得た、ということです。
ですから、キリスト教葬儀では、生きている人間が死者の運命のために追善供養をする必要はなく、むしろ生きている私たちが“故人を記念する”意味で「記念会」をするのです。納骨の時は、記念会として最もふさわしいでしょう。その後は1年とか3年、(7年)10年が、節目として考えられます。教会の墓地に納骨された場合、毎年10月に、墓前で教会主催の合同の召天者記念礼拝が行なわれます。個人的な記念会とは別に、意義深い記念の時になります。

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by rev_ushioda | 2012-05-10 15:32 | Comments(0)

「不調の中で」

不調のときは、思考が停止、もしくは鈍くなる。今回、脚の神経痛で気持ちが塞ぎこみ、風邪も重なったことで薬による眠気、こういう状態で思考がかなり鈍くなった。まだ尾を引いている感じで、何ともはがゆい感じがしている。一応、痛みは抑えられているが、原因はどこでも診てもらっていないわけだから、潜在的な不安をかかえたままだ。

積極的に動こうとか、考えようとか、そういう気持ちが沈んでいるというか、考えが出てこないというか、そういう時に私がすることは、ネットで検索した中山道をインターネットで開くことである。これから行こうとする道筋を辿る。まだ見ぬ道を思い描く。ただそれだけなのだが、不思議に気持ちが引き上げられる気がする。
道というのは、不思議だと思う。自分が歩いたことがない道が、ぐんぐん迫ってくる。ああ、そうだ。天に行く道、信仰の道、主イエスの道が、そのように聖書を読む時、ぐんぐん迫ってくるような読み方をしたいものだ。どうしたら、そうなるのだろうか。聖書は読んでいるといくらでも深みに進んで、楽しい。しかし、うかうかすると文字を相手にしてしまう。文学の楽しさになってしまう危険がある。ふと、そうだ、だから神学だ、という気持ちがよぎっていく。聖書を読んでそこで満足して終わらず、「道」が見えてくるようになるのは、その「道」が楽しくて仕方なくなるには、そこに必要なのは、やはり神学なのだ。そうだ、そうだとこの3週間ほどの不調の中で、何とはなしに、ぼやっと思っていることである。

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by rev_ushioda | 2012-05-07 18:56 | Comments(0)