泉区民クリスマスは地域の全7教会と、3キリスト教団体、合計10団体で実行委員会を組織している。例年、アッシジのフランシスコの「平和の祈り」を祈ってきたが、今年は東日本大震災を受けて、その祈りをベースにしながら、泉区民クリスマスのための祈りを作った。原案が次々と修正され、そして私たちの共同の祈りが出来上がった。カトリック、聖公会、長老教会、福音派諸教会など、地域の諸教会が共同で一つの祈りを導き出し、今回(今回も!)、ただ行事をこなすだけではない、とても良い仕事ができたと思った。
私たちの泉教会のクリスマス礼拝でもそれを用いたが、今度の元旦礼拝でも、それを用いることにしている。
(句読点の位置など、読みやすいように多少の修正を施した。主の祈りは、カンバーランド長老教会日本中会『礼拝書』より)

元旦礼拝 共同の祈り

友よ、私たちは新しい一年を始めるにあたり、心を新しくして、神の豊かな恵みと、力ある導きを求めて祈りましょう。

神さま、私たちを平和のために用いてください。
自然災害によって、家族を失った方々に慰めを
自然災害や原発事故によって、家を失った方々に居場所を
今も困難な中におられる方々に、支援をもたらすことができますように。
疑いのあるところに、真実を
悲しみのあるところに、喜びを
暗闇のあるところに、光をもたらすことができますように。
慰められることよりも、人々を慰める者にしてください。
理解されるよりも、理解することを
愛されるよりも、愛することを望ませてください。
私たちは、与えることのうちに与えられ、
ゆるすことのうちにゆるされ、
死ぬことのうちに、永遠のいのちに生きるからです。

私たちは、新しい思いで主の祈りを祈ります。

天におられる私たちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
私たちに必要な糧を今日 与えてください。
私たちの罪を赦してください、
私たちも自分に負い目のある人を
皆 赦しますから。
私たちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください。
国も力も栄光も
永遠に主よ、あなたのものです。
アーメン。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
↑ ランキングに参加しています。よろしく。
[PR]
by rev_ushioda | 2011-12-31 09:52 | Comments(0)

私たちは、鏡があれば自分を見ることができます。しかしそれは外側の姿だけであって、内側の自分、本当の自分が見えてくるのは、「自分とは違う人」と出会うことだと、古屋安雄さんという方が言っています。生まれてからずっと、ほかの人との出会いによって、自分と出会ってきたように思う、と古屋さんは言うのですね。
外国で生まれた古屋さんは、こう言います。外国人との出会いによって、自分が日本人であることを知った。アジアからの学生との出会いで、日本の持っている問題を考えさせられた。それで、ひょっとしたら人間は自分とは異質のほかの人と出会った時しか、本当の自分とは出会わないのではないだろうか。そういう意味で自分とは異なる偉い先生たちと出会ったのは自分にとって幸いだったし、逆に、学者や知識人からは異質な人との出会いによってもまた、多く気づかせてもらった。たとえば戦争に出て行くとき「死ぬじゃない、生きて帰って来い」と命の尊さを教えてくれたのは学のある先生たちではなく無学の老婆だった。さらにキリスト者の自分にとっては仏教や神道など、異なる宗教を信じている人との出会いもまた貴重だった。自分が信じているキリスト教とは何かを逆に教えられたからと、そういうことを言って、古屋さんは最後にこう言うのです。
私にとってまったく異質なのは、聖書で出会う、聖なる神にほかならない。私はこの神をまず父母から、さらに学園の恩師を通して教えられて今の自分になったが、この神によって、本当の自分に日々出会わされている。なぜなら、この神の前で、自分がいかに自己中心であるか知らされるから。

ずいぶん長く引用し、紹介しました。私たちは、自分とは決定的に違う、神に出会ったとき自分を知ることになるのです。自分と出会うため、あなたにもイエスという神に出会っていただきたいのです。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
↑ ランキングに参加しています。よろしく。
[PR]
by rev_ushioda | 2011-12-29 10:14 | Comments(0)

第11回「泉区民クリスマス」が行なわれた。
ゲストには、会場の賛美をリードする歌のお姉さんと、トランペット奏者を迎え、その他、教会の合唱や幼稚園児のページェントが内容である。公会堂でのクリスマスが終了後、駅前でのキャロリングをもって、一般の皆さんへクリスマスの訪れを告げる時となった。本日が、クリスマス本番。
f0086426_10292737.jpg
f0086426_1029535.jpg
f0086426_1030569.jpg
f0086426_10302632.jpg
f0086426_10303592.jpg

[PR]
by rev_ushioda | 2011-12-24 10:33 | Comments(2)

「短大のクリスマス」

今日は、I 短期大学のクリスマス礼拝。今週から研修が始まったM先生にも、教会と大学との関係を見学してもらうことも研修の一つかと、同行していただいた。
さて、400人くらいは、いたのだろうか、所構わずおしゃべりする大学生に、そうはさせるかと、幼稚園の子どもたちに話したときと同じように、関心をこちらに向けさせるような導入を持ってくる。何とか黙らせて(?)、聞いてもらった。038.gif おかげで、こちらはぐっと疲れて、帰宅後は昼寝。泉教会では教会のクリスマスが一つだけ(燭火礼拝)のかわりに、地域の幼稚園、短大、そして泉区民クリスマスと、外部との関わりの中で、この時期ならではの、なかなか疲れる場面が続く。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
↑ ランキングに参加しています。よろしく。
[PR]
by rev_ushioda | 2011-12-19 22:00 | Comments(0)

「母 受洗」

93歳の母が、息子の私から洗礼を受けた日。
私から見れば、つたない、かろうじて辿り着いたような信仰。
いや、その信仰もあるのか、ないのか・・・
洗礼を拒まず、勧められるまま、喜んで受けたことが、信仰の告白かと。
仲間の信仰によって運ばれるとは、こういうことかと実感。
えも言われぬ不思議な思いになったこの日。

f0086426_17222380.jpg


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
↑ ランキングに参加しています。よろしく。
[PR]
by rev_ushioda | 2011-12-18 23:22 | Comments(5)

「幼稚園の子どもに」

明日は、宮の台幼稚園でのクリスマスメッセージである。
今まではYMCAいずみ保育園でアドベント礼拝、クリスマス礼拝のメッセージを続けてきたが、保育園に近いほかの教会があるので、子どもたちが教会につながることを考えて、メッセージはそちらの教会にお任せすることにした。
そうしたら、タイミングよくというか、区内にある他のキリスト教幼稚園から、今年は依頼を受けることになった。師走・・・ 牧師は、楽をさせてもらえないことになっているようだ。
対象は子どもなので、絵を使いながらのお話となる。フィギアを貼り付けながら、お話を進めるわけだ。ところが、クリスマスのお話だから毎年同じだろうと、たかをくくってはいられないのである。毎年、毎年、絵は同じであっても、その年毎のメッセージ(ストーリー)を考え、絵の動きを準備するのに、これが不得意もあって、ずいぶん時間がかかってしまうのだ。
加えて、私は、この手のお話は(どの「手」のお話もそうなのだが、特に幼稚園児の前でのお話のこと)非常に苦手である。子ども、父兄、合わせて300人くらいの前でお話しするのは、ずいぶん緊張を強いられることになる。いまだに、慣れるなんていうことは、まったく、ない。

今夜も、これから予行演習をしなければ・・・

f0086426_20291342.jpg

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ

↑ ランキングに参加しています。よろしく。
[PR]
by rev_ushioda | 2011-12-15 20:30 | Comments(0)

「受けるよりは与える」

スイスの神学者E・ブルンナーは、火は燃えることによって存在するように、教会は宣教によって存在すると言っています。
今、クリスマス案内のために町中を歩き回っています。皆さんは、お隣のポストに教会のクリスマス案内のチラシを入れる時、何を感じたでしょうか。少し先読みすることを許していただければ、クリスマスを案内する、教会を案内する時に感じるのは、「自分はキリスト者であったのだ」と、初めてのように感じる、感動ではないでしょうか。
出て行くときに、初めてのようにして、自分が何者であるかを確認するのかも知れません。今まで、自分の内側に向かって堂々巡りしていたいろいろな思いが、パッと晴れやかになる経験をしないでしょうか。「そうだ、自分はキリスト者であったのだ」と。自分の中でぐるぐる回っていた時には感じることができなかった自分という存在を、1枚の教会案内、1枚のクリスマス案内を、人に手渡すことで確認できるというのは不思議な経験です。「火は燃えることによって存在するように、教会は(=キリスト者は)宣教によって存在する」、本当ではないでしょうか。
宣教とは、別にチラシ配りだけではありません。日ごろのキリスト者としてのあらゆる振舞い(証し)や、自分が属する教会を喜ぶこと、家族を礼拝に誘うことなど、さりげないところでも表すことができます。
イスラエルにある湖の一つはガリラヤ湖で、魚がたくさんいる、生きている湖です。ヘルモン山の雪解け水を受けるヨルダン川の水が流れ込み、もう一方から流れ出させている。もう一つの湖は、同じヨルダン川の水を受ける死海ですが、海抜マイナス400メートルという世界で一番低い所にある湖のため、流れ出す川がない。塩分の濃度が高くて、生きている魚は一匹もいないのです。その名前の通り、死んでいる湖です。
パウロは言っています。「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すように」(使徒言行録20章35節)。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
↑ ランキングに参加しています。よろしく。
[PR]
by rev_ushioda | 2011-12-13 09:52 | Comments(0)

クリスマスは、12月25日です。カトリック教会は教会暦をきちんと守り、その日にクリスマスとして礼拝をささげます。
しかし、多くのプロテスタント教会では、その前の週、つまりアドベント第4主日を「クリスマス主日礼拝」としているようです。大変、おかしいと思います。25日は平日の場合がほとんどなので人が集まらない。それで前倒しでアドベント第4主日をクリスマス(礼拝)とするのでしょうけれど、教会暦では、アドベントは第4主日までですから、アドベント第4礼拝はきちんと守り、そしてその後にクリスマスを迎えるべきなのです。待つ、というのはそういうことだと思います。
今年は、12月25日が主日(日曜日)と重なるために、その日をクリスマスとして礼拝をささげる教会が多いのですが、あれ、と思います。毎年、12月25日にクリスマス(礼拝)をしているならば、それでいいのですが、今年だけ、主日が25日だから、ということでその日にクリスマス(礼拝)をするのでしょうか。他の年は、25日は何もしないのに・・・。
泉教会は、アドベント第4礼拝は、アドベント期間中の礼拝として、しっかりまもるようにしています。そして、クリスマスは25日ですが、毎年、クリスマスイブ(24日)をクリスマスとして礼拝(燭火礼拝)をささげるようにしています。ですから、泉教会の場合、クリスマスの礼拝は12月24日の燭火礼拝を指しています。このようにすることで、毎年、アドベント第4礼拝をきちんと守り、待つことを満たして後に、クリスマスを迎えることを実現させているのです。
クリスマスイブというのは、多くの教会では、もうクリスマス礼拝は終わっているからここは「クリスマス伝道集会」にして一般の人に教会に来てもらおう、というような受け止め方をしていると思います。それはそうなのですが、キリスト者にとって大事にすべきクリスマスの礼拝をささげる時であると、こちらを大事にすべきではないかと思います。教会暦にはそれなりの意味があるのですから、アドベントはアドベントとして、「待つこと」をきちんと満たしたらよいと思うのですが、いかがでしょうか。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
↑ ランキングに参加しています。よろしく。
[PR]
by rev_ushioda | 2011-12-08 08:49 | Comments(0)

「感情転移」

相談の過程で、来談した人が、過去に出会った人物(養育者である場合が多い)に対する感情や態度を、話を聞いてくれる人に向けることを、心理療法で「転移(感情転移)」と言います。
感情転移には、2種類があって、一つ(陽性転移)は、聞き手に、信頼・尊敬・感謝などの感情を持つことを言います。他の一つ(陰性転移)は、聞き手に、不信感・猜疑心・攻撃心・恨みなどを持つことを言います。どちらも、本来、向き合うべき対象に向けるべき感情を、今出会っている対象に抱く感情のことです。その時(幼児期)に出せなかった感情を、話を聞いてくれる対象に向けるのです。上の2種類の感情は、正反対のように見えますが、根は同じです。どちらも話をよく聞いてくれる人に依存的で、幼児のように、まとわりつくといった特徴があります。
教会では、お互いが人間として向き合っていこう(よく話を聞こう)とします。すると、そこで起こりやすいのが、感情転移なのです。今まで経験できなかった人間らしい関係の中で、まず、信頼感、尊敬心が強くなり、全面的に信頼したいと思うようになります。しかし、反対に、ちょっとしたことで「つまずき」、急に熱が冷めて、もう教会に行きたくなくなります。その根は同じなのです。なぜそういうことが起こるのかというと、その信頼や尊敬を、本来、向けていなければならない対象に対して向けていなかったり、または、その怒りを本来、向けなければならない対象に向けていなかったりしているからです。一方、そういう宿題を持つ人が安らぎを求めて教会においでになるとすれば、いよいよ感情転移は起こりやすくなります。
教会は、主イエス・キリストに出会うと同時に、自分自身と出会う場所です。たとえば、何かの拍子に、仲間の誰かに対してや牧師に対して不満や怒りを感じたとき、その不満や怒りは、今まで向き合ってこなかった誰か、に向けるべき怒りであったりしないでしょうか。私たちは、受け入れられて、初めて、自分の感情と出会います。そこに出てきた感情は、自分が「宿題」としてきた、大事な感情なのかもしれません。「陽性」「陰性」問わず、正しくその感情と向き合うことができたら良いと思います。
[PR]
by rev_ushioda | 2011-12-04 09:47 | Comments(2)