草津宿

ホテルの11階の部屋から、下を見るとJR草津駅である。いよいよ旧東海道、最終ステージに立った。
今日は、草津から出発。草津と言えば中山道の分岐がある。5年前に「江戸」日本橋から正反対に延びた二つの街道を、あのとき私たちは東海道を南下したが、そこから逆方向の北に向っていた中山道とここで合流した。なぜか、感無量・・・。来年は、ここから中山道を「江戸」に向けて再び出発予定。新しい街道の旅が始まる。
次の写真、正面のトンネルが、中山道の始まりである (昔は、上の草津川に上ってそこを渡っていたたと言う)。写真では見えないが、右手に東海道が合流している、まさに東海道と中山道の合流点(分岐点)である。
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さて、今回は琵琶湖東岸を南下、途中、「江戸」から120里の一里塚を越えた。残り6里、いよいよ瀬田の唐橋を渡った。これで琵琶湖を越えた。明日には、京都にと思うと、何やら、不思議な感動を覚える。
ところで、東から京へ上るには、東海道を離れ、湖に出て、矢橋(やばせ)の港から大津への船を使うとが早いが、しかし比叡おろしの強風に悩まされた。そこで、さらに足を伸ばして南方にある瀬田の橋を渡れば安全である、として、瀬田までの遠回りの道を選ぶことになった。「もののふの矢橋の舟は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」。これが、東海道である。急がば回れの語源になったうたであり、まさにその場所である。遠回りして、学ぶことがある。

ゴールイン

さて、二日目は、瀬田の唐橋を過ぎた琵琶湖西岸の石山から出発。一日目は自宅を5時に出て東名を飛ばしたら午前中に草津に着いた。一日目にもかかわらず思わず歩行距離を延ばすことができたため(14キロくらいか)、ついに、京都への射程圏内に入った!!(残り16~7キロ)
琵琶湖西岸を大津に進み、そして、あの「逢坂」である。蝉丸が「これやこの行くやかへるも別れては知るも知らぬも逢阪の関」と詠った「逢坂」に来れば、その先は、もう、山科である。
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食事に店に入れば「おおきに」。心なしか、紅葉さえも京都らしく(?)見えてくるから不思議だ。国道1号とも山科辺りで別れ、、いつしか「三条通り」となる。いよいよだと思うと、疲れた足も速くなる。
ところでいよいよゴールというところで、道を見失った(と思った)。通りがかりの人に訊くと、国道を教えてくれた。地元の人でも旧道はしらない。今までもそうだったが、ここ京都でも同じだった。結局、GPS(携帯しているナビ「ゴリラ」)で確認したら、歩いていた道が旧道であったのだが。
さて、南禅寺がある山を右に見ながら都ホテルを左折、あとは直進(西に進み)、京都の碁盤の目の中に入る。そして、ついに、加茂川にかかる三条大橋に到着。5年にわたる東海道旧道を歩く夫婦の旅は、ここにゴールインした。
三条大橋はたくさんの人で、ごった返していた。当然だが祝ってくれる人もなく、自分たちで感動をかみしめた。ああ、これが京都だ。電車で京都に入ったことはあったが、歩いて京都に至り、あの坂を、この坂を越えてついにここに立ってみて、京都を実感した。京都は、誰も皆、歩いて上洛すべし。
通りがかりの人に頼んで写真を撮ってもらった。こうして、ひとしきり感動を味わい、気づいたらすでに5時、暗くなってきたので、買い物もせず、今夜の宿がある大津に戻ることに。(次の写真は、加工して明るくしてあるが、実際はかなり暗いです)
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草津から京都三条大橋までのルートは ⇒ こちら



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by rev_ushioda | 2011-11-30 23:52 | Comments(9)

「FCを高く」

昨日の中会会議で、再び、中会議長に選ばれた(選ばれてしまった)。

以前、と言っても2年も前に、この議長選挙ということで「覚悟」ということを書いたが、A牧師はそのことをよく覚えていて、今回、話題にされた。そのとき私は、一瞬、何を書いたか思い出せず、帰宅して確認する始末であったが、記事は、2年も前のことであった。→「覚悟」

そこで何を書いたかということであるが、本論ではないが、中会会議に臨むには、議長に選ばれてもあわてないように、前もって「イメージトレーニング」をする、と書いていた。それは今回も同様で、1週間も前からだったか、選ばれたときのイメージを作っていた。しかし、ラフな服装で行ったために、つい、「選ばれるつもりはなかったが」と言ったのだが、「イメージトレーニング」からは、その「つもり」はあったのである。
その上で、あえてスーツは着ていかなかったということなのである。イメージはイメージで、だからそのようにする、というのとは違う。昔だったら、そのようにしたのだろうなあ・・・それで十二指腸潰瘍になった・・・30代前半で中会議長(当時は中会とは言ってなかったが)に選ばれたとき。
「遊び」がないと、本当の責任は担えず、いい仕事はできないと思う。だからイメージまではしたが、ラフな服装で出かけたのは、ひとつの大事な遊びのパフォーマンスであった。エゴグラムで言えば、FCを高くしたわけである。

遊びながら、1年間、議長を楽しんでみようと思う。

・・・で、さっそく来週は、「たんぽぽ会」もすっぽかして、3日間、東海道のいよいよ最後の行程に臨む。5年かかったが、今回で、京都にゴールインである。

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by rev_ushioda | 2011-11-24 18:57 | Comments(2)

「死も来た半島?」

下北半島・・・この半島は今や「核燃半島」とも称すべきものになりつつある(現地ではこのように言っている)。・・・ある人はついに「死も来た」半島だと。
私は「原発とキリスト教」という本を読みながら、地方、とりわけ過疎地の原発から送られてくる電気を都会が享受しているというところに、心が痛くなった。私たちが普通に生活している背後に、「死も来た」と言わなければならない、しかしそこに住み続けなければならない地方の、過疎地の人々があったのだ。
聖書は言う。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
辺境の土地に住む人々にイエス・キリストの光が射し込んだと言っている。しかし日本では、そこに住む人たちが「死も来た」と言うのか。原発の、死の光だったのか。都会の私たちが、その原発の光を享受しているのか。
心を強く打たれた思いがした。私が属する9条の会では、自然エネルギーへの転換を訴えてチラシを配布しているが、また一つ、言いえぬ強い動機を与えられた。

友よ泣かないのか  森田童子

友よ
ぼくたちは 輝く陽射しを
目ざすべきでは なかったのか
風よ 泣かないのか
時よ 泣かないのか
友よ 泣かないのか
新しい 朝のために

友よ
君も一緒に だめになるなら
ぼくも だめになっていいと思ったのです
夜よ 泣かないのか
故郷よ 泣かないのか
友よ 泣かないのか
新しい 朝のために

友よ
ぼくたちの限りなく 悲しみに
近い朝明けの空は
終わりに 泣かないのか
荒野よ 泣かないのか
友よ 泣かないのか
新しい 朝のために

友よ
ぼくたちは 輝く陽射しを
めざすべきでは なかったのか
風よ 泣かないのか
故郷よ 泣かないのか
友よ 泣かないのか
新しい 朝のために



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by rev_ushioda | 2011-11-21 22:32 | Comments(0)

「仮想現実」

テレビを見ていたら、ドキュメンタリーで、いわゆる「性依存」のことを放送していました。ネットを通じて知り合った男性との関係を転々とする。いわく、だれかに必要とされていたいのかな、と。性を媒介として孤独感を解消する仮想空間を作る、一種の仮想現実です。ゲームセンターに行くと、昔から、たいていどこにでも車を運転するゲームがあります。テレビ画面上に車のコースが映し出されています。テレビの前にある車のハンドルやレバーを操作すると、画面上の車を自分が運転しているような感覚で、画面が動いていくのです。今の言葉で言うと、仮想現実というものです。
同じようなもので、画面上の人物になれる、ロールプレイ・ゲームというものがあります。こちらが考えた動きがそのまま画面上の人物に反映され、そしてドラマが展開していくというゲームです。多くの場合は、非常に暴力的なゲームであり、またある場合は、人間は何度でも復活します。
こういう、仮想現実の世界に入り込んでいくときの危険性について、今、問題になっています。以前、飛行機の機長が殺されたハイジャック事件がありましたが、犯人は、テレビ画面上で何度も飛行機を操縦したから、本物も操縦できると思い込んだようです。そして何百人もの命を危険に陥れただけでなく、実際、機長の命を奪ってしまったのです。仮想現実によって、目の前にある現実との区別がつかなくなってしまい、命に対する感覚も麻痺してしまったのです。

ところで、聖書の中に、平和がない状況にもかかわらず、手軽に平和、平和と言いふらす人々があったとあります。平和であってほしい、という願いに対して、手軽に、平和、平和と言う。いわゆる、こうした仮想現実の世界を持ち込むのは、私たちの得意とするところでしょうか。人から相談を受けたとき、保証もないのに大丈夫だよ、と言います。あるいはその人の現実ではない私の経験を持ち出して、それはこうしたらいい、とアドバイスする。現実のその人と向き合っていない、仮想現実を提供しているだけの会話を、私たちも平気でしているようです。こうしたアドバイスされた人は、いつまでたっても現実に立てないままとなります。
聖書は、私たちの現実に立った話をしようとしています。あなたも泉教会においでになってみませんか。心から歓迎いたします。

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by rev_ushioda | 2011-11-20 22:52 | Comments(0)

「会議も礼拝」

「会議はすべて、祈りをもって始め、祈りをもって閉じる」と、『カンバーランド長老教会 教会憲法』(3.05)に書かれています。
一般の会議に参加する機会はしばしばあるのですが、ある意味で「変な」感じを受けるのは、そこに、祈りがないことです。いえ、彼らからすると、祈りがあることに違和感を覚えることでしょう。なぜ、祈ってから会議をするのでしょうか。
それは、キリスト者、教会にとって、会議も「礼拝」だからです。会議は何かを決めるために複数の人が集まって話し合うことですが、キリスト者にとっては、ただ知恵を出してよい結果を得るための場が、会議なのではありません。会議は、話し合うというかたちをとった、神礼拝なのです。礼拝とは「行動と態度を通して神に向けられた賛美、崇拝、感謝、嘆願の儀式」(『キリスト教神学用語辞典』)であるとすれば、会議はまさにその行動と態度を通して神を賛美、崇拝する、つまり、神の栄光を求める行為なのです。
ある教会の役員会で、土曜日ですが、湯のみ茶碗が飛ぶかというほどの議論を交わした。翌日、日曜日ですが、激しく意見が対立したその人は、さすがに今日は来ないだろうと思っていたが、何と礼拝堂の最前列に座り、献金のお祈りをきちんとされたというのです(辻宣道著『教会生活の処方箋』)。こうして、議論しても礼拝を優先する人、会議での理屈や感情の動きはあったとしても、主日礼拝をおろそかにしない人の姿を紹介するのです。会議は、神を礼拝するためにあります。もっと言えば、自分ひとりが礼拝するのではなく、教会がふさわしく神を礼拝する共同体になるために、会議を行なうのです。当然、それを話し合う会議そのものも、礼拝、神の栄光を求めるものなのです。
中会会議が開催されますが、中会会議は、14の教会から代議員である牧師、長老が集まり、議案を審議し、大事な決定をします。すべて神の栄光のため、話し合いの最初も、最中も、最後も、会議の形をとったよい礼拝となりますように。

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by rev_ushioda | 2011-11-18 22:22 | Comments(0)

「花も」

昨年の三浦サマーキャンプで、子どもたちが繰り返し歌ったうた、それは「花よ」であった。そのあとから子どもたちが次々と洗礼を受けているので、今、この歌を礼拝で歌っている。主を待ち望む、とてもよい歌だと思う。

「花も」

ここに泉はわく 涙を過ぎるとき
やがて実をむすび 笑いごえに満ちる

花も 雲も 風も 大海も
かなでよう かなでよう イエスを
空にひびけ 歌えたましいよ  
恵みを 恵みを 恵みを

(私たちの礼拝では、「かなでよう」は「たたえよう」と変えている)


仰げ 天は開き  ぼくらは見るだろう
やがて花は咲き 栄光の主がこられる

花も 雲も 風も 大海も
かなでよう かなでよう イエスを 
空にひびけ 歌え たましいよ 
恵みを 恵みを 恵みを 



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by rev_ushioda | 2011-11-15 23:13 | Comments(4)

「子どもの洗礼に思う」

子どもたちの洗礼が続いている。きっかけは、昨年のサマーキャンプだった。漆間君のメッセージによって決心が与えられた。
それだけだったら、よくある話かも知れない。勢いで、ということが往々にしてあるからだ。しかし、まず洗礼を受けたのは4年生のEちゃん。その年のクリスマスだった。次に、中一のL君。今年に入って、春休みだった。次に、やはり中一のHちゃん。イースターだった。そして、昨日、6年生のCちゃん。みな、ばらばらに洗礼の日を迎えたのである。信仰はまだまだ幼いものであるが、しかし、それぞれが自分の洗礼のときをしっかり定めた、ということだ。それこそが、信仰告白であろう。
こうして泉教会は4人の小中学生の会員を含むことになったが、どこの教会も高齢化が進む中、私たちはこれからの教会形成について、子どもたちからの力強いメッセージを受け取ったのだと思う。
Cちゃんへの洗礼名は、「リディア」。フィリピで洗礼を受け、教会の草創期に生きた人である。

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by rev_ushioda | 2011-11-07 12:15 | Comments(4)