この映像に、心が激しく動く。

http://www.youtube.com/watch?v=zrJje5pTZ0A&NR=1


歌は、Metisの「人間失格」・・・
題名はともかく、3.11以後、何か自分に腹立たしい。何もしなかったわけではないのに、そこで何をしているのか、と自分に向かう思いがある。もっと何かできるのではないか、という思い。
しかし、それはまた、誘惑となることも知っている。私たちが、自分にできるだけのことをした、と思えなければ、被災された方々に向う手は強迫観念にゆがめられた手になってしまうのだ。腹立たしさという思わぬ感情に支配されないで、しっかりと現実を見つめ、出来ることを地道にしていくこと、それをよしとすることが、今、大事なのだろう。

「人間失格」の歌詞は ここ

もう帰らぬ日の青春
何より自分が大切だった
苦しむ友を救う事さえ
できなかった
人間失格。

(中略)

涙を忘れていませんか?
大事な事から逃げてませんか?
自分に嘘をついてませんか?
諦める事に慣れ過ぎてませんか?

泣きたければ 泣けばいい
叫びたければ 叫べばいい
それでいいんだよ・・・
君でいいんだよ・・・
全ていいんだよ・・・
きっといいんだよ・・・

明日は明日の風が吹く
(以下略)

聖書では「風」は聖霊。

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by rev_ushioda | 2011-09-26 11:25 | Comments(0)

「14年を越えて」

手元に何冊か、いくつかの教会の「記念誌」があります。その題を見ると、3つの分け方ができそうです。第一は、そのまま何周年記念誌としているもの。第二は、『神の恵み』『あしあと』『キリストのみわざをほめたたえて』というように、歴史を振り返って、そこに現われた恵みに対して題をつけたもの。第三は、『御国を来たらせ給え』『なお、あなたを待ち望む』『後の世代のために』というように、未来に向けて題をつけたもの。

さて、泉教会は14周年を迎え、ここから15年目の歩みに入ります。10年、20年、30年・・・と数えるか、15年、30年・・・と数えるか、数え方にはいろいろあるでしょうが、15年はそれなりの節目であるに違いありません。14周年を越えて15周年に至るこれから1年間、私たちは、一つの大切な「節目の年」に向けて歩んでいくことになります。
「自分は15年前を知らない。どのように15周年を祝えばよいのか」と思う人もいるかも知れません。その通りです。しかし、私たちはむしろ、今、ここから、先を見ることが大事なのではないかと思います。節目に際して過去の歴史を振り返ることはもちろん大事ですから、それはしっかりと記録しつつ、先を見て、そのずっと先から、今を振り返る。すると、そこに私たちがいるのです。私たちは、今、ここから、これから先の5年、10年、15年・・・を作っていく大切な仲間だということが、大事なのではないでしょうか。そういう意味では、ここからがスタートなのです。スタート地点に、私たちがいるのです。いや、たまたまいる、ということはないでしょう。教会のかしらである主から招かれて、ここにいるのです。これからの教会のために、私たちが必要とされているのです。そういう招きなのです。来年は15周年。「後の世代のために」何を残したらよいかを考えながら、この1年間を過ごしたいと思うのです。来年発行される私たちの教会の15周年記念誌の題は、何としましょうか。

「後の世代のために/このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された。』」(詩編102・19)

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by rev_ushioda | 2011-09-21 19:08 | Comments(0)

アウシュビッツといえば、誰も一度は聞いたことがあるでしょう。第二次世界大戦の時、ヒトラー率いるナチスドイツが、罪もないユダヤ人を強制収容し、600万人もの人々を虐殺した場所が、アウシュビッツです。ここで生き残った人はきわめて少数ですが、その一人に、ビクトール・フランクルという人がいます。フランクルの家族は収容所で餓死、または毒ガスで殺されますが、フランクル自身は、強制労働と極度の栄養失調によく耐えてこの収容所から奇跡的に生還したのです。この人は精神医学者でした。それで後に自分の体験を書いた本を出版しました。「強制収容所における一心理学者の体験」という本で、日本では「夜と霧」という題で知られています。そこでこう言っているのです。「助かる見込みがない状況の中では、残りの人生に何か期待できるものを探してみても、絶望しか発見できないだろう。考え方を変えてみよう。私が、残りの人生に何かを期待するのではなくて、残りの人生が、私に何かを期待しているのだ。」

残りの人生が、私に何かを期待しているのだ。それによって、死に向かう苦しみの中でさえ、なお生きる意味を見出すことができる。残りの人生が、私に何かを期待しているのだ。それによって、苦しみと前向きに向き合って、苦しみを背負って生きることもできるようになる。そう言ったのです。

残りの人生が、私に期待している。言い換えましょう。神が、私の残りの人生に期待し、神が、私の残りの人生を必要としているということです。聖書の言葉。「起きよ。光を放て。あなたを照らす光は上り、主の栄光はあなたの上に輝く。」栄光は君に輝く。何か高校野球の歌みたいですが、本当にそうなのです。主なる神は、あなたの残りの人生に光を照らし、あなたの残りの人生を必要とされています。今、どんなに苦しくても、どんなに困難があっても、神はあなたを期待している。今日は、あなたの残りの人生の初めの日なのです。あなたに、神の平和がありますように。

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by rev_ushioda | 2011-09-18 06:26 | Comments(0)

「教会で 講談」

教会で講談をすると聞いたある方は、「ミスマッチ」と形容されました。なるほど、教会やキリスト教とは、まずそのように日本文化とは切り離した仕方で捉えられているのだと、改めて思った。本来、そういうことはまったくないはずなのにもかかわらず、一般にそのようなイメージがあるのは否めない。150年のプロテスタント・キリスト教の責任もあるのかも知れない。
まあ、そういうことも念頭にあるので、チラシには「え、何? コーダン?」という添え書きをしたわけである。
講談師 神田ナザレさんの語りは、聖書の世界にぐいぐい引き込んでいく、なかなかすばらしいもので、
日本に昔から伝わる伝統の話芸「講談」。「講釈師、冬は義士、夏はおばけで飯を食い」と申しますように『忠臣蔵』や『怪談話』で有名ですが、今回は聖書のお話を聞いていただきます。
そのように前置きしながら、幽霊の話も交えて、聖書の世界に私たちを連れて行ってくださった。午前中のいつもの礼拝説教でも説教していただいたが、神田ナザレ氏は、実は、日本キリスト教団 駒澤教会の北川正弥牧師。さすがにそこはスーツかと思っていたら、駅に現われた同氏は、着物姿。初対面なので言おうとしていた言葉を失ってしまった。着物で説教することは、私のあこがれであり、変なところで感動。さすがに、説教は(当たり前であるが)普通の説教であったが、普通に話していても、どこか講談の香りが・・・ 神田一門に社会人弟子とはいえ弟子入りすると、違うんだなあと、ここでも感心した次第。教会にとって、非日常的なすばらしい経験をさせてもらった一日であった。午後は会場の広さに見合う30余人の来場者で、初めての人にも来ていただき、とても良かったと思う。

・・・それはそれとして、午前中はいつもよりずっと礼拝人数が少なかったことに対しては、やはり評価の言葉が見つからない。やはり、というのは、泉教会ではクリスマス、イースター、ペンテコステのほか、何か大事な時になると、いつもの人数がぐっと減るという不思議な現実が、従来よりあるのだ。まる1日になると、確かに高齢者などハンディを持つ何人かの方たちが来れないということを除いても、そこに課題が顕在化する私たちである。
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by rev_ushioda | 2011-09-12 09:12 | Comments(0)

「聴く」

牧師を30年以上していて何度、「最近、説教が変わりましたね」と言われたことかと思います。牧師も色々勉強をしますから、確かに変わらないことはないのですが、しかし、「説教が変わりましたね」と言われるタイミングが、自分が動いた時と明らかに違うのです。
そういう「評価」を聞いて、私は、思い出したことがあります。ある時「パウロの伝道」という講座を開いたことがありましたが、その講座のあと、一人の方が「聖書の文字が大きくなりました!」と目を輝かせて言われたのです。今まで、ぼーと、と言っては失礼ですが、自分なりの基準で聞いていた聖書の言葉が、その講座によって自分の中に受け皿ができて、聖書そのものが言っていることとして聞けるようになった時、文字が大きくなったのです。自分の受け止め方が変わった瞬間、文字が大きくなったのです。
聞き方が変わる、ということがあるのです。今まで何度も聞いたのに、ある日、初めて聞いたように思えることはないでしょうか。つまり、それまでは上の空で聞いていた、ということはないでしょうか。まさか聖書や説教を上の空で聞くことはないにしても、自分とのひっかかりが得られず、ついに聞くことができずにいるということがあるのです。しかし、聞くための器ができると、たとえば自分が苦しんでいるときとか、その時に、語られていることがしっかりと受け止められるようになるのです。同じ聖書の言葉でも、今までは何も響かなかったのに、次に読んだときには大きく響いてくることがあるのです。説教が変わったのではなく、聞き方が変わった、・・・のではないでしょうか。
同じ「聞く」でも、「聴く」という字を使うことがあります。これは、「聴診器」「傾聴」のように使います。自分の先入観、思い込み、価値観を一旦なくして、向き合う対象からそのままに聞くときに使う字です。そのように、私(こちら)が自分を前面に出すのをやめて、語られた言葉の行間を読もうとするほどに聞き取ろう、・・・そうです「聴く」ことができたら、同じ説教は、変わるのです。

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by rev_ushioda | 2011-09-09 17:49 | Comments(2)

「生まれる前から」

私たち夫婦には、2人の娘がいます。けれども、上の子が産まれる前に、私たちは2人の子を流産で失っています。そして下の子が産まれるまでにさらに1人。こうして、3人を流産で亡くしました。ですから、上の子の時も下の子の時も、大事をとって妻は10か月間、完全に寝たままの状態でした。流産を繰り返す中で、病院も、普通では産むことが出来ないけれど、どうしても子どもがほしいという人が全国から集まってくるという、鎌倉の病院を紹介されました。それでも、上の子の時はいよいよ危なくなって、出産前の4か月間は、入院ということになりました。一生懸命でした。命と向き合う日々でした。幸い産まれてからは健康で、成人式を迎えた時、親ばかですが、イルカの「なごり雪」をプレゼントしました。「今、春が来て、きみは、きれいになった・・」鎌倉に通った日々を思うと、とてもうれしかったのです。人が産まれるというのは、当たり前ではない。あの時に読んだ聖書の次の言葉を、今でも宝物のように思っています。
「あなたは私の内臓を造り、母の体内に私を組み立ててくださった。…胎児であった私をあなたの目は見ておられた。私の日々はあなたの書(書物)にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから」
私たちは見ることがありませんでしたが、造り主である神は、私たちの胎児を見ておられたのです。まだ一日も造られないうちから、もう、知っていてくださったのです。私たち夫婦は流産の子をこの手に抱くことは出来ませんでしたが、その理由もわかりませんが、神はその子も、一人の命ある人として天に迎えてくださったのです。何という慰めになったことでしょうか。
しかしこれは、流産の子どものことだけではありません。私たち一人一人のことでもあります。神さまは私たちを、実に産まれる前から、目の瞳のように慈しんで愛していていてくださったのです。そしてこの世に生を与えてくださった。人が産まれるというのは、創造主のわざです。命を創造する方に、あなたにも出会っていただきたいのです。

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by rev_ushioda | 2011-09-05 17:40 | Comments(0)