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「講演会」

「雨のイメージから人の心を考える」という講演会を、心を聴く市民ネットワーク主催で行なった。講師は、聖学院大学大学院准教授である藤掛明先生。
「…あなたの雨にまつわる思い出には、どんなものがあるだろか。大切な日ほど、そして、かけがえのない場面ほど、そのときに雨がふっていたということはないだろうか。…雨のイメージを辿り、味わい直すことで、その人の心の動きが見えてくる。あなたは雨のなか、歯を食いしばって進む人だろうか、雨足を眺めながら雨宿りをする人だろうか。」 なかなかユニークな内容で、ワークを含め、特に雨の中を突破するイメージから、頑張ることについての指摘は、興味深かった。

キリスト者でもある先生の講演は、雨をテーマにしていることや、語り口調が平易で、とても良い講演会であったと思う。近隣の教会の牧師、教会員も、参加してくださった。また、このテーマへの関心か、心を聴くということへの関心か、横浜ケーブルビジョンの取材が入った講演会は、参加者55名。通常30人であるので、今までになく盛況であった。

なお裏話であるが、私は先生との面識がないので講演依頼の連絡先がわからず、苦肉の策、ブログのコメント欄から入って、大変失礼であったにもかかわらず、快くお引き受けいただいて、先生には心から感謝。

もう一つ、これは後日談。
翌週のこと。教会に車椅子を利用される方がおいでになり、帰りは40分ほどの道をご一緒することにした。雲行きが怪しく、夕立が来そうな嫌な気配だったが、案の定、途中で突然ものすごい土砂降りとなってしまった。逃げるまもなく、とはこういうこと。そのまま、そこに立ち尽くすしかない、ものすごい降り方であった。電動車椅子なので、濡れてショートでもしたらいけないと気がかりで、傘はその方の上に、、、となると、いきおい濡れるしかないわけで、あのような「ずぶ濡れ」の経験は、私にとって記憶がある限り、初めてであったかも知れない。目の前が川になった。土が流され、茶色の水が勢いよく流れていく。下水マンホールから水が吹き出る。仕様もなく、その場に立ち尽くし、ひたすら豪雨が去ってくれるのを待つしかなかった。
さて、講演会のチラシには、こう書いてあった。「…あなたの雨にまつわる思い出には、どんなものがあるだろか。大切な日ほど、そして、かけがえのない場面ほど、そのときに雨がふっていたということはないだろうか。…」

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by rev_ushioda | 2011-06-25 10:00 | Comments(0)

「教会音楽祭」

教会音楽祭は、ルーテル教会・長谷川健三郎、カトリック教会・佐久間彪、聖公会・宅間信基の3人の間において、教派を超え、音楽をもって一緒に主を賛美する集いをもちたい、と話し合われたことに端を発しています。3人は、それぞれ属する教派に呼びかけ、また、日本基督教団にも声をかけ、委員会を組織し、準備を進めました。

実施の柱は、以下の3点です。
 ・各教会が自分たちの礼拝の音楽を発表しあう。
 ・各教会間の交わりと一致の業を実践する。
 ・日本の教会音楽のあり方を模索する。

この3つを目標を掲げ、第1回教会音楽祭は、1968年6月9日、4教派、1000人を超える参加を得て、カトリック東京カテドラル聖マリア大聖堂にて開催。 「250名からなる聖歌隊と共に声を合わせ『力の主をほめたたえよ』と一人の主を賛美したとき、その壮大な響きは東京カテドラル聖マリア大聖堂にこだまして、心を一つにされた一同は大きな感激を味わった」とあります。
以降、第21回(1990年)までは毎年、以後は隔年で開催を続けてきました。最初は教会音楽を紹介し合うだけであった教会音楽祭は、以後、毎年主題を定め、共に祈ることに大きな意義を求め、次第に礼拝の形に整えられてきました。こうして、エキュメニカルな(教会一致を指向する)集会としては日本最大規模の集会へと成長してきました。こうした中でカンバーランド長老教会は、6回前の2001年から参加するようになりました。

第30回となる今回のテーマは 「光」。「第30回教会音楽祭実行委員会」主催で、参加団体は、カトリック教会、カンバーランド長老教会、日本長老教会、日本聖公会、日本基督教団、日本同盟基督教団、日本バプテスト連盟、日本福音ルーテル教会の8教派となっています。

カンバーランド長老教会聖歌隊の指揮者は、今年はわが泉教会の永見兄です。こうして、教会一致の礼拝を共に出来ることを、心から感謝します。

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by rev_ushioda | 2011-06-18 20:41 | Comments(0)

「説教裏話」

「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 」

今日はペンテコステ礼拝。いつものように、子どもの手で、バラの花びらを礼拝堂に散らした。天井に投げ上げたバラの赤い花びらが、一人ひとりの上に舞い落ちる。聖霊がくだった、あの日も、このような感じだったのかな、と思いを馳せた礼拝だった。

ところで、説教個所の予告が、いつもの講解説教の順番通り、マタイによる福音書6章1~4節であった。実は、聖書を決めるとき、ペンテコステ礼拝だということを失念して、週報に予告してしまった。先週、一人の人が帰りがけ、「ペンテコステでも、いつもの続き(マタイによる福音書)なんですね」。言われて、あっと思った。が、予告してしまった以上、あとの祭。その個所は、こうだ。

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。・・・」

この個所と、ペンテコステと、どういう関わりがあろうか。 ^^;

ペンテコステは、聖霊の日。まさに聖霊に導かれて、この個所がペンテコステの説教になったのであるが、ここからペンテコステの説教をした人は、2000年の間、いないのではないだろうか。
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by rev_ushioda | 2011-06-12 23:06 | Comments(2)

「祝福(祝祷)」

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように、今、そして明日も。」
礼拝の終わるとき、派遣の言葉と共に祈る、祝福(祝祷)です。皆さんは気づかれているでしょうか。私は、多くの教会で祈られている祝福とは、少しだけ違う言い方をしているのです。「明日」という言葉を使っています。
ある人が、明日が手術という人のお見舞いに、病院に行ったのです。しかし、翌日、その人は帰らぬ人になってしまった。お見舞いに行ったその人は、神学生、まだ牧師の卵でした。見舞った人が亡くなってしまったために、「自分は何もできなかった。何の慰めも語れなかった」と落ち込みました。しかしその時に、先輩の牧師がその人に言ったそうです。「君は別れる時、何と言ったのか」「では、また明日会いましょう、と言いました」「それなら、君は“永遠の明日”を指し示したのだ。君が普通の人として“明日”と言ったのなら、それは単なる挨拶に過ぎなかった。しかし君は信仰者として病人のところに行ったはずだ。だったら、“また明日”と言ったその明日は、亡くなった人にとって、永遠の明日になっている」。
同じ言葉でも、相手にとっては「永遠の明日」を指し示す言葉になる、というのです。
私たちは、つたない言葉しか知りません。いえ、その言葉さえ、かえって人を傷つけることもしばしばです。しかし、そのような無力を感じるしかない中にあっても、私たちは人間として心を高く上げることができるのです。言葉に、「意味」を感じたときです。特に、「明日」に対して、永遠という意味を発見したとき、私たちは人間らしく、心を高く上げられるのです。
礼拝の終わりの言葉、祈りの言葉こそ、「永遠の明日」を指し示す言葉なのです。今日が、最後の礼拝になるかも知れない。しかし、そこで「永遠の明日」を仰ぎ見れるように、私は、皆さんの上に祝福を祈ります。

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by rev_ushioda | 2011-06-11 18:56 | Comments(2)

「召命」

ある時、「牧師は楽しいですか?」と訊かれたことがあります。勢い「楽しいです」と答えましたが、よく考えてみると、気負う答えであったと思いました。「楽しくない」というのも違います。そもそも、楽しい、楽しくないという基準にあてはめて判断できるのだろうか。それは、人のはかり方であり、人の基準なのです。そういう基準で、牧師の仕事をはかることができるのだろうか、そう、思ったのです。
仕事が楽しい。それは結構な話だと思います。では、楽しくなくなったら、どうなのでしょうか。
 楽しいとか楽しくないとかいうのは、感情を基準にした「はかり方」です。そういうところに仕事の基準を置いてよいのか、ということです。
ルターは、1533年に旧約外典『シラ書』11章21節で、「労働」という言葉をberuff(現代表記beruf)を使って表しましたが、この翻訳以前、実はこの言葉は、「聖職への召し/召命」を意味する場合にのみ用いられていたのです。それまで、一般の労働には、「使命としての職業/召命」という意味はありませんでしたが、この後、職業は「使命としての職業 beruf」という意味をもつようになり、現在にいたっていると言われています。
仕事だけでなく、日常起こってくる事柄をどのように考えるかは、大事なところです。楽しいか、楽しくないかで判断していたら、それ以上にはなりません。神に召されている、つまり、使命がある、そのようにとらえてみると、たとえ楽しくなくなっても、そこに使命があるということになります。
さて、「牧師は楽しいですか」の答えは、楽しくもあり、そう言えなくもあり、でしょうか。しかし、召しを感じ、中会からの按手を受けて出発したのです。「酒ぶねの中で小麦を打つ」(士師記6章11節)ような者を、神は召されました。その後33年、誠実をかけて「我、ここに立つ」であります。
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写真は、1978年3月、日本基督神学校卒業式、東京都東久留米市 (以前もこの写真を掲載したかと思うが・・・何を笑わせているのだろう。忘れかけていたが、録音テープが、見つかった。それはいずれまた。)

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by rev_ushioda | 2011-06-01 11:55 | Comments(0)