「信仰街道」

私たち夫婦は、「旧東海道」を少しづつ、京都に向かって歩き始めて、4年になります。こうして歩きながら思うことは、先に目標があるということは楽しいという、その実感です。街道の全体を見て、今いる自分の位置を確認するのですが、後ろを見ると、そこにいろいろな足跡が残されている。そして先を見ると、未知の世界が広がっている。この街道に立つと、後ろも楽しい。前も楽しいのです。
さて、私たちは信仰において「神の都」を目指す旅人です。この信仰の街道に立ち、そこで過去を、現在を、未来を語ることができたら、何と楽しいことかと思います。時々は、後ろ(過去/歴史)振り返ります。そして自分の位置を確認し、また前を見て、先に進みます。信仰の街道のガイドブックは、聖書ですが、この場合はあえて「信仰告白」としてみましょう。ガイドブックを大事にしないと、同じところに立ち止まってしまいます。人と話すとき、いつも同じ関心で、いつも同じ話しか、しなくなります。この信仰の街道は豊かな発見を伴う、わくわくしたものなのに、ガイドブックを持たないと、信仰の街道の全体が見えず、いつも同じ関心で、同じ話しかできなくなります。
自分を振り返って、どうも同じ関心が脳裏から離れず、また、同じ話を繰り返していると思うなら、要注意です。聖書全体は、創造、人間の罪と希望、社会のあり方、恵みの契約、教会、聖霊、終末など、あらゆることを語っていて、全体のバランスがとれていて、信仰という豊かな、わくわくした街道を作っているのです。しかし、そこでいつも同じ景色になっていたとしたら、つまり、いつも同じことを言っているとか、聖書を読むとき、読みたくない個所が(読みたい個所が)いつも同じであったとしたら、そこがあなたの関心のありどころです。時には、それは良いものであるかも知れません。しかし、1年経っても、まだ同じところに留まるとしたら、何かの偏りがあるかも知れません。「信仰告白」は、信仰街道のガイドブックです。「信仰告白」を手にしながら、神の都を目指す信仰街道の全体を見て、わくわくしたこの街道を、神の都を目指して、ぜひ一緒に歩きましょう。(できたら、東海道も一緒に!)

にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へ
↑ ランキングに参加しています。よろしく。
[PR]
by rev_ushioda | 2011-05-30 13:27 | Comments(0)

女性の集いに、牧師として参加しました。今回も高座教会の礼拝堂がいっぱいになるほど、女性たち200名以上で溢れ、一緒に行った他教派の牧師は、「すごい動員力ですね」と感嘆するほどでした。
それはともかく、今回は講談師が語る聖書物語という、ユニークな内容でありました。牧師でありながら講談師であるという人が語りだす、その話に引き込まれました。
「左利きのエフド」(士師記3章)という話がありました。聖書では見開きの半ページほどの記述ですが、これを講談とするのです。もちろん脚色するわけですが、なぜ左利きかというあたりの説明がつけられていました。ある注解を読んだとき、「右手に、何かあったのかも知れない」と書かれてあった。そうだと思い至ったところから話は発展するわけです。聖書を読み込んで、講談とする。そこは、やはり牧師です。右手に何か不都合がある。だから、それでダメだと思うのではなく、それが神によって用いられることにもなるのだというあたりの裏話まで、それも講談で聞かせていただいたのでした。
開会礼拝のときも、パウロは再三、行こうとしていた先が閉ざされ、ついにトロアスに立ったとき、そこでこそ聞いた叫びによって伝道の新たな展開が起こった。そして閉ざされたことにも意味があったのだ、という話と重なり、私たちの宣教の閉じた目を開かせる女性のつどいでした。
聖書の言葉は説教によっても語られますが、講談によっても語られ、そして、今度は皆さんが聖書を読むときに、皆さんによっても語り始められることを期待します。(牧会のはなし より)

f0086426_22571746.jpg

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
↑ ランキングに参加しています。よろしく。
[PR]
by rev_ushioda | 2011-05-22 22:57 | Comments(0)

「牧師会」

ボブ・ワトキンス師、リン・トーマス師を迎えて牧師会が行なわれた。
御茶ノ水橋の上で。

f0086426_225144.jpg

[PR]
by rev_ushioda | 2011-05-17 22:46 | Comments(3)

「牧師研修会@三浦」

月曜日から一泊二日で牧師研修会に出かけた。

会場は、三浦海岸の「マホロバ・マインズ三浦」別館。別館は、「全室スイートルーム」というくらい、すばらしい広さと、作りの高級感が印象的だった。1室4ベッドが設置してあり、1ベッドは「離れ」という感じで、実際、その部屋に入ることもなかった。2ベッドも、独立した部屋になる。部屋風呂も、トイレも、自宅より広い?という感じである。もちろん、牧師研修会で使うわけで特に高い宿ではない(1室2人で1人11,500円)。それほど遠くなく、海にも近い。また来たい、と思う宿であった。研修会とはいえ、部屋によっていやされるというのは、日ごろ忙しくしているので、大変ありがたいことだった。
順序が逆になったが、肝心の研修プログラムも、なかなか充実していた。今回、説教批評のひとつの提案というかたちで、説教塾での学びの方法論が紹介された。最初、機械的という第一印象でとまどいがあったが、しかし進めていくうちに自分の説教を客観的に分析、自己評価するのに有効な方法だと思った。日ごろから、こういう学びを続けているのか、そうであるなら中会の牧師たちの説教のレベルは大丈夫だと、自分のことは差し置いて、そんなことを思った。
そのほか、東日本大震災の被災地に入った牧師たち(6人)の報告を聞き、教会のディアコニアを改めて思うときであったし、I 先生の宣教報告も、ブラジル宣教の新たな時代を印象づけるものであった。

よい研修を準備してくださった先生方に感謝。

それにしても、三浦海岸の砂浜で、ビーチボール「サッカー」に汗だくになる牧師たち。元気だなあ・・・ 運動神経の鈍い私などはとてもついていけない別世界だ。スポーツと聞くと、昔から、拒否反応が出る。(そうは言っても中学、高校、大学とずっと軟式庭球部に籍を置いたが、努力の結果が出なかったというトラウマかも知れない)。波間をただようウインドサーフィンに興じる若者のほうに関心が移る。風に身を任せるというのは、力を入れてはいけないのだろうな、と。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
↑ ランキングに参加しています。よろしく。
[PR]
by rev_ushioda | 2011-05-11 09:29 | Comments(0)

「和泉川散策」

やっと、風邪が良くなってきた感じがし始めたので(何と、2週間も引きづってしまった)、今日は、休日を利用して、妻と二人で和泉川散策をしてみようと思い立った。前にも一度、二ツ橋からいずみ野まで歩いている。あれは、東海道に旅立つ前だったかな。
今日は、和泉川に沿って、いずみ中央までと思って出かけたが、何となく調子もいいので、もう少し先まで行くことにし、結果、飯田牧場辺りまでの、ゆっくり4時間コースとなった。和泉川の起点は、今回は、宮沢である。

途中、いずみ野で、カラスの大営巣地?(何百~千羽ほどが木という木に、高圧線の電線に群れ、そしてそれが一斉に空を飛び交い…)があって驚いたり、遊水地に大量のこいのぼりを上げてお祭りをしている横を通ったり(どうも政治団体主催のようだった)、何よりも、川沿いの花の美しさにみとれたり、田園地帯で深呼吸したり。楽しい散策であった。→ 地図

あとから聞いた話によると、この日、一部同じコースに重なって、さらに先まで、S夫妻も歩いていたとのこと。以前、鎌倉でもぱったり出会ったご夫妻である。行く先々、よく重なりますねえ、と。

f0086426_2117281.jpg


にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
↑ ランキングに参加しています。よろしく。
[PR]
by rev_ushioda | 2011-05-03 21:00 | Comments(0)

今朝の朝日新聞に 「祈りよ再び」と題しての記事があった。
「宮城県気仙沼市に流木の十字架が立っている。津波で全壊した気仙沼第一聖書バプテスト教会の跡地に牧師たちやボランティアが作った。1日、震災後初の礼拝があった。」
2年前に献堂した礼拝堂であるとのこと。記事と一緒に掲載されている写真には、「町」は、跡形もない。もちろん、その礼拝堂も、ない。ただ、教会があった場所に十字架が立てられているだけだ。瓦礫の中から拾い出した木で組んだ十字架と、手前は、ようやく見つけ出した、礼拝堂にあったという十字架。このふたつの十字架が、人々の希望の象徴として立てられた。
f0086426_19543070.jpg

そういえば、関東大震災の時に作られたというのが、聖歌397番である。

1.遠き国や海の果て 何処(いずこ)に住む民も、見よ
慰めもて変わらざる 主の十字架は輝けり
 (くりかえし)
     慰めもて汝がために 慰めもて我がために
     揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けり

2.水は溢れ、火は燃えて 死は手、広げ待つ間にも
  慰めもて変わらざる 主の十字架は輝けり

3.仰ぎ見れば、など恐れん 憂いあらず、罪も消ゆ
  慰めもて変わらざる 主の十字架は輝けり

下にも動画をつけたが、ピアノの曲はこちら 曲を聴きながら、詞を読んでみたい。



聖歌の友社 聖歌撰の解説によると、大阪市立高等商業学校(現・市立大学)の英語講師で 大阪に在住していた作者 J.V.マーティンの言葉が紹介されている。
「 東京大震災の 9月1日(1923年)の夜、多くの罹災者が 芝白金の明治学院の運動場で 夜を迎えました。
九死に一生を得た人々に 蚊帳とロウソクが支給されました。その夜、たまたま東京にいた私は 明治学院に見舞いに来たところ、蚊帳の中で点火されたロウソクの火が 丁度、暗の中の十字架に見えたのです。私は早速ペンを執り、この詩を書き上げ、その後大阪に帰ってこの曲をつけました 」 。

3.11の東日本大震災で、家族、友人、地域の仲間を失い、家をはじめ何もかも生活基盤を流された人々の絶望は、いかばかりであろうか。震災後の原発問題は、人間が作り上げた文明がまさにバベルの塔ではなかったかと警鐘を鳴らしている。風評問題では、人がいかに簡単に不安に陥る者であるかを暴いている。政府の対応のまずさと政治の混乱は、私たちを失望させるに余りある。そういう中で、この賛美を見よ。
「揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けり」 何と力強い、慰めに溢れた歌、賛美であろうか。いや、十字架と復活の主への信仰であろうか。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
↑ ランキングに参加しています。よろしく。
[PR]
by rev_ushioda | 2011-05-02 17:29 | Comments(3)

「病床聖餐」

礼拝に来れなくなった方のために、教会をその家に持っていく、それが病床聖餐である。
実のところ、教会とは礼拝堂のことではない。主イエスの名によって集まる仲間がいるところ、つまり、説教と聖礼典が行なわれるところが、教会なのだ。思いがけない人数となって、幸いなときを持つことができた。健康が回復することはないと、誰もが知っている。「アメイジング・グレイス」を歌う。聖餐を受け取る。もう、御国さながらである。

f0086426_10391932.jpg

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
↑ ランキングに参加しています。よろしく。
[PR]
by rev_ushioda | 2011-05-01 21:59 | Comments(2)