「イースター礼拝」

イースターの朝7時、昨日の雨がうそのように上がって、窓を開ければ晴天!
イースターの説教は、クリスマスと同様、同じ聖書個所にならざるを得ず、なかなか苦労する。今年は、思い切って説教者をF先生に依頼、少しおもむきを変えてみた。黒い虹から始まる説教。なるほど、切り口が鋭い。だいたい、説教題が「虹と十字架、空の墓」である。わくわくするような説教題ではないか。
今年は、泉 教会をはじめ、日本ホーリネス教団 横浜いずみキリスト教会から5人、泉中央キリスト教会から1人、カトリック中和田教会から1人、この皆さんと共に、例年並みの23、4人はいたであろうか。
礼拝後、一緒にうどんをいただき、 ん? イースターと、うどん? いつもの礼拝のために、教会に向かう。これが、最近のイースターの朝のパターンである。

礼拝では、中学1年生のHさんが受洗。昨年のサマーキャンプがきっかけで受洗した子どもは、これで3人目。うれしい1日であった。

ただし、最悪であったのは、私たちの風邪。私は、先週1週間、不調であり、妻はゆうべ39度の熱。休むわけにもいかず、幸いに熱は下がったようではあったが、無理して早朝から夕礼拝まで。こういう時に風邪をひくか、という、これだけはタイミングが悪かったね。冬を乗り切らせてくれた黒酢ニンニクも、やはり、万能ではなかったわけで・・・


司式者) 神さま、春になれば花は咲き、若葉が茂り、造られたものは、みな、
      あなたの創造をほめたたえています。

礼拝者) しかし、わたしたちの心は、不安、疑い、怒り、悲しみ、恐れを
      引きずっています。

司式者) すでにあなたは、あの墓石をも動かし、わたしたちを命へ招いているにも
      かかわらず、

礼拝者) しかし、わたしたちの目は まだ 墓に向かったままなのです。

司式者) そのようなわたしたちが、今、イエス・キリストの空の墓の前に引き出され
      ました。

礼拝者) そこで、わたしたちは喜びの言葉を聞きます。

司式者) 「なぜ、生きた方を死人の中にたずねているのか。その方はここにはおら
      れない。よみがえられたのだ」。 ハレルヤ!

礼拝者) ハレルヤ! 主は、よみがえられた。
      今、わたしたちの石の心は動き始め、閉じた目は開かれる。

司式者) 死を越えて命へ、主は、勝利をおさめられた。
      主は、わたしたちが死の陰の谷を行く時の光。

礼拝者) ハレルヤ!

司式者) 主は、死に勝利し、わたしたちの道の光となられた。
      今からのち、主は、わたしたちの永遠の慰め、永遠の希望。

      主の復活、

一 同) ハレルヤ!

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by rev_ushioda | 2011-04-25 18:10 | Comments(2)

「感情は一瞬にして」

「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける…早く和解しなさい」 マタイによる福音書5章21-26節

人のお話を聴く現場でしばしば出会うのは、事情を説明されますが、感情に気づいていない、ということです。今回の震災で「頑張ります」と皆、言う。でも、よくよく話を聴いていくと、悲しいんだよ・・・と。人は、自分の感情を言わない。いえ、気づいていないのです。怒って話しているから怒っているのかと思うと、意外と、本人は、怒っていることに気づいていないことがあるのです。
「腹を立てる」というのは、感情です。しかし、自分では、腹を立てるような感情はない、と言うことが多いのです。正当なことを言っている、正義とはこうだとか、秩序とはこういうものだとか、意外と本人は並べ立てる。冷静に話しているつもりなのです。しかし、傍目から見れば、もうだれが見ても、腹を立てている感情そのもので話しているとしか、言えないことが起こります。自分の正義は、上から目線になり、しかも自分ではもう押さえ込めない、怒りの感情に支配されているのです。感情は、本人の意識とは別なところで、動き始めるようです。「腹を立てる」というのは、人のことだ、自分はあくまでも正義の中に生きている、と思う人がいたら、その人にこそ、腹を立てているのは、正義を言っているをあなただ、と主は言われるのです。
人間の正義には、いつも、怒りがあるのです。自分が裁判官になってしまうのです。そして、「腹を立てる」。その「腹を立てる」怒りの感情は、人間関係を一瞬に引き裂いていきます。津波の傷跡を見たでしょう。普段の生活が一瞬にして、無残な姿になりましたね。「腹を立てる」という感情が襲ってくると、兄弟であるという関係さえ、破壊するのです。
「早く和解しなさい」と主は言われます。しかし、その主が、まず和解を申し出てくださったのではありませんか。パウロの言葉では、こうなります。「その十字架の血によって…御自分と和解させられました。」(コロサイ1・20) だから、私から申し出るのです。正義は主にあるのに、私たちは感情に支配されて、自分の正義で「腹を立てて」いたのです。正義を私物化してはならないのです。主の和解の中に、私物化していた正義をお返しししたとき、感情は、私たちの中でただしく働き始めることでしょう。

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by rev_ushioda | 2011-04-17 22:56 | Comments(0)

「時が来れば」

花が咲いて、あ、ここに桜の木があったんだ、ということに気づく。季節が過ぎれば意識から遠のき、忘れられていくのであるが、しかし、時が来ればまた、花を咲かせるのである。
イザヤ書27章6節 「時が来れば、ヤコブは根を下ろし/イスラエルは芽を出し、花を咲かせ/地上をその実りで満たす。 」
普段は隠れていても、情けなくても、しかし時が来れば、その時には存在を示せる者でありたいと思う。その時には。

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by rev_ushioda | 2011-04-13 18:44 | Comments(2)

「線で読む聖書」

聖書は1冊に編集され、製本されていますが、実は66もの小さな本からできています。その1冊の、たとえば福音書を日曜日の礼拝で少しづつ読んでいくと、読み終わるまで2年以上かかります。一気に読めば数時間で読めてしまう本を、2年、かけるのです。
私は、このような長さで聖書を読むということは、本当に大事なことだと思っています。2年といえば、そこにはどういうことがあるでしょうか。楽しいことも、もちろんあるでしょう。しかしまた、人間関係が悪くなることも、リストラに遭うことも、あり得ます。病気をしたり、思いがけない事故に遭うことも、そして、家族の誰かが亡くなるということだって、あります。そういう2年にわたって聖書が読まれるということは、聖書は、今言ったどの例に対しても問題をごまかしたり、逃げたりしないで答えている、ということになります。
アメリカのあるクリスチャンの家庭にホームステイさせてもらった時のことです。その家庭では数か月前に息子さんを自殺で亡くされていた、ということを知りました。そういうことだったら、予定されていたこととは言え、ホームステイを断わってくれてもよかったのに、と思いましたが、彼らはそうしませんでした。お話を聞きながら気付いたことは、この辛い出来事の前にも後にも、彼らは教会の礼拝に通い続けていたということです。聖書を読む生活を続けていた。聖書は、このような思いがけない出来事にも、問題をごまかしたり、逃げたりしないで、この家庭に語りかける言葉を持っていたということでした。
すれ違いざま、ひと言ふた言、言葉をかけて終わり。責任も持たない、という時代に、聖書の言葉は2年どころではありません、生涯にわたって、あなたに責任を持つ言葉であるのです。そのことを、私は35年の牧師としての経験から、そして45年にわたって聖書を読み続けてきた経験から、確信することができます。

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by rev_ushioda | 2011-04-11 09:23 | Comments(0)

「否定的感情」

「人々は一斉に…叫んだ。…叫び続けた。…あくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。」ルカによる福音書23・13-25

感情は、マイナスの方向に動きやすいのだということを、私たちは肝に銘じておかなければならないでしょう。つまり、放っておけば、感情は必ず、否定的、批判的な方向になります。よほど意識しないと、津波が押し寄せるようにして、あっと言う間に、私たちはそのマイナス感情に支配されてしまうでしょう。普段の生活を一瞬にして奪っていったのが、あの津波でしたが、同じように、普段、聖書をどう読んできたか、今さっき礼拝でどういう言葉を聞いたか、教会を愛の共同体だと言っていても、そういう日常が一瞬にして吹き飛ばし、崩壊させる威力のあるものが、マイナス感情なのです。
否定的感情は、こうすべきだ、こうしてはならない、だからダメなんだ、という形で現れます。なぜ出来ないのか、という批判で現れます。おかしいんじゃないか、という不信、不満の形で現れます。この感情に支配されると、そういう言葉が口癖のようになっていきます。言葉がパターン化します。
否定的な感情は、以心伝心、不思議に連鎖します。よくない、だめ、などという言葉に触発されて、人の気持ちはどう動くかというと、私もそう思っていたんだと連動し、それは核分裂的な連鎖反応となり、時間を経ずして、数十倍の威力になります。
悪魔の用いる手法の一つは、感情を否定的、後ろ向きにしてしまうことです。それが、教会を崩壊させるのに一番、手っ取り早い方法だということを、悪魔は知っているのです。そのことで教会の活動が停滞したことがいかにしばしばあったことでしょうか。感情は、放っておけばマイナスの方向に動きやすいのだということを、私たちは肝に銘じておかなければなりません。
数えよ、主の恵み! 私たちは、生かされている恵みを数えましょう。与えられている良いものを分かち合いましょう。泉教会が主に用いられていることに目を留めましょう。泉教会の枝であることを感謝しましょう。これが、否定的感情が押し寄せる時の防波堤になるでしょう。

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by rev_ushioda | 2011-04-04 18:32 | Comments(0)

日本を襲った未曽有の大災害のために、私たちは、教会として何をすべきでしょうか。

聖書に特徴的な言葉として、「ディアコニア」という言葉があります。日本語では「仕える」「奉仕する」「世話をする」「もてなす」「給仕する」「奉仕者のつとめをはたす」などと、訳されます。相手の必要に備え、助けるという意味を持っている言葉です。主として具体的、物質的な隣人への奉仕を指しますが、何よりも、主イエスとの関わりで書かれています。

「人の子が来たのも、仕えられる(ディアコネオー)ためではなく、仕える(ディアコネオー)ためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」 (マタイ20・28)。

ですから、主イエスの飼い葉桶での誕生、十字架、復活は、神により為された最大のディアコニア(奉仕、もてなし)でありました。
名詞形がディアコニア(奉仕、援助)、ディアコノス(奉仕者)です。主イエスのディアコニアによって、私たちは、人に仕えるディアコノスになるのです。ディアコノスに対して主イエスは、後の日にこう言われるのです。

「(あなた方は)わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた …この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」 (マタイ25・31-46)。

私たちは、主がそこにおられると受け止めて、食べさせ、飲ませ、宿を貸し、着せ、見舞い、訪ねるディアコノスなのです。何よりも、主が十字架で死んで、墓から復活してくださったことを行為の根拠とします。そうでなければ、何をするにしても、上から目線の哀れみ、自己満足にしかならないでしょう。ディアコニアは、主が自らを低めてくださったところからだけ、出発するのです。ゴールは、復活の希望です。それが、私たちの行動の根拠です。
ディアコニアは、 「行為と行いによる福音の展示なのである。それは、台詞(せりふ)のない救いの無言劇である」 (『明日の社会と明日の教会』ホーケンダイク)。

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by rev_ushioda | 2011-04-01 16:50 | Comments(0)