「教会の会議について」

定期中会会議が終わった。

議題が少ない。今日は早く終わると思うのは甘かった。議論が予想されるところは、関係者としては周到な(?)準備をして臨んだが、違うところで議論になり、一寸先は闇とか。結局、問題が出そうなところはすんなりと通過。肩透かしを食ったような…  そして終わったのは、いつもと同じか、それより遅いという時間帯であった。

共同体としてきちんと責任を果たし、責任を引き受けるためには、会議は、避けて通れない。それをいい加減にしたところは、いい加減な共同体となる。…にしても、時間的には、もう少し何とかならないだろうかと思う。

ところで、教会を建てるのは、聖書の言葉であるにちがいありません。しかし、聖書が大事だと言っているだけでは、決して聖書が大事にされることにはならないのです。聖書が正しく語られ、聞かれるための、システムも大事だと考えています。
私たちの教会は、「中会主義」をとっています。各個教会の上にある、「中会」というシステムを、大事に考えています。各個教会は、そこに代議員(牧師と長老)を送ります。その決定を大事にすることで、地域の教会が教会になると、受け止めているのです。つまり、牧師を任職し、教会に派遣するのは、この中会です。その教会を生み出し、組織的に設立するのも、また、中会なのです。
中会の「会議」は議長を選出しますが、任期は1年です。ここが大事だと思うのです。どんなにすぐれた人が居ても、その人が中心にならないシステムなのです。会議がいつも教会の中心にあり、そのシステムを大事にすることで、人が中心にはならない。そういうところで、では、何を大事にするのか。聖書を大事にする、ということが実現するのです。聖書を大事にと言いながら、人が中心になった結果、聖書の読み方がゆがめられ、決して聖書が大事にされないということも、今まで、しばしばあったのです。
長い時間をかけて話し合うというのは、それは、正しく聖書を読むための労苦であると言ってよいでしょう。

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by rev_ushioda | 2011-02-28 21:02 | Comments(0)

「無題」

民主化を求めて次々飛び火する中東の反政府デモ、それに対する独裁者側の暴行、蛮行。
ニュージーランドの大地震によって多くの死者。あの倒壊建物の下に人がいると思うと、身につまされる。
日本はと言えば、期待の中で登場した新政権の体たらく。
どこも激震が走っている。

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by rev_ushioda | 2011-02-25 00:00 | Comments(2)

きょう、「なかわだ9条の会」の懇親会が開かれた。
20数名の参加者があって、私は、妻と一緒に参加、食事をしながら、良い交わりを持つことができた。
戦争は嫌です、という一点で結ばれた会の活動も、準備段階から、まる2年。2009年には会として立ち上げ、懇親会は去年に続き、2回目となった。活動は、月一回、駅前での150枚のチラシ配布。マイクは使わず、ひたすら地道に配り続ける。地道に、「子どもたちに平和な明日を」と呼びかけ続けている。

ビデオは、失敗して、接写レンズで撮影してしまった。そのため、よかったのか、悪かったのか、結果として霞がかかっている。
※以下のビデオ(4分半ほど)は非公開のため、そのままでは見ることができません。お手数ですがインターネットで YouTube を開き、⇒アカウントを作成、⇒そのアカウントをメールでお知らせください。このビデオを見ることができるようになります。



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by rev_ushioda | 2011-02-22 20:08 | Comments(0)

「中心の移動」

私たちの教会は、今の家との出会いがあって始められた教会です。けれども、不動産屋でこの家を見つけた時、実は1か月ほど見向きもしませんでした。もっと駅の近く、もっと大きな街道沿いに、と思っていたからです。
しかし、ふと、この家を中心に周りを見てみました。すると、けっこうこの場所は3つの駅の中心に位置していて、交通の便はそう悪くはない。道路も、比較的分かりやすく、人に教えやすいのです。駅や街道沿いを中心に据えていた時には気付かなかった気付きでした。「ここでいけるじゃないか」と思いました。私は、中心を移動してみる、ということを学んだのです。そうすると、今まで何にこだわっていたかに気づく。そして、新しいものの見方、新しい世界が開けていくのです。

聖書で大事にされていることの一つは、この中心の移動ということです。

ただ、まずそこで言われているのは、私たちではなくキリストが、天から地上の私たちのところに中心を移動してくださった、ということなのです。キリストは、中心の移動など、なさらなくてもよかったのです。天にあって動かず、でんと構えていればよかったのです。しかし、キリストは地上の弱さ、罪ある貧しい私たちのところにまで、中心を移動してくださったのです。キリストはあの馬小屋の飼葉おけの中に誕生されたことは誰も知っていますが、そこまで中心を移動し、貧しい私たちに、身を委ねられたのです。さらに、静かな山の上から、平地、町の中に移動し、そこで人の痛みや苦悩、人間の破れを引き受けていかれた。ようやく落ち着いたかと思うと、もう次の町に出て行かれます。こうしてキリストは中心を移動し、私たちすべての人を、招いているのです。

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by rev_ushioda | 2011-02-21 16:53 | Comments(0)

「大変」

娘夫婦に二人目の子どもが与えられた。

・・・のはよかったが、次の日、つまり昨日になって、上の子が風邪かなということで幼稚園を休ませて、夕方になってからである。ひきつけ、けいれんを起こした。ひきつけは、1年半くらい前が最初で、これで、3度目。熱が急に上がるとき、38度あたりで、ひきつけをおこすようだ。最初のときは、これは大変と救急車を呼んだが、(一番パニくっていたのは妻であったが)今回は皆、何とか冷静に対応。10分くらいで落ち着いてきたが、結局、熱は39度越に。今朝、病院に行って、インフルエンザA型と言われた。タミフルが夜になっても効かず、熱が下がらないのが、心配である。
娘は、入院中。私たちも含めて家族はできるだけ病院には来ないほうがよいと医師から言われるし、当然、娘のつれあいは、ぐったりしている子どもの世話をみなければならない。今日は、夜の学校を休んで、明日は仕事も休まなければならない事態に。(感染は)あきらめてます、と。

重なるときは、重なるものだ。そして、私たち家族はといえば、特に保育士の娘など、発症した家族がいれば、本来、出勤停止だそうだ。いつ自分が発症するかと、戦々恐々である。

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by rev_ushioda | 2011-02-15 20:25 | Comments(2)

「男の子が産まれた」

日曜日の朝7時。なにやら1階が騒がしい。急に、陣痛だとか。孫を預けて、病院に行ったと思ったら、1時間もしないうちに、産まれました、と。二人目の孫が誕生した朝であった。

私の周辺は、女の子ばかり。私には二人の妹がいて、私の子どもも、その二人の妹たちのところも、産まれてくるのは女の子。唯一、上の妹に産まれた男の子が一人。その甥っ子以来、35年ぶりに、今回、娘に男の子が誕生。さて、私にとって、男の子の付き合い方は未知数である。何か、よろしくっていう感じの初対面である。

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by rev_ushioda | 2011-02-14 10:44 | Comments(4)

「なぜ」

今日は、2月11日である。

ちょっと見逃していたが、1月26日の朝日新聞の記事に、哲学者 佐々木中(あたる)氏が坂口安吾氏の言葉を引用しながら、述べていた。

坂口安吾が「お前は甘いぞと言われることが、我々日本人にとつては骨身にこたえる一大苦痛」と揶揄しています。皆、「現実をわかっていないお前は甘い」と言われたくなくて、現状追認に走っているだけですよ。しかし「現実がこうである以上、こうするしかない」という言説は、結局、人を苦しめ搾取や暴力を生み出すだけです。人間は「なぜ」と問う生物です。・・・この「なぜ」という真摯な問いが今何よりも欠けています。・・・我々も、「なぜ」という声をあげることが、やましいことであるかのように思いこまされています。・・・「なぜ」と問いましょう。問い続けましょう。われわれは人間なのですから。

私たちが平和を語ると、必ず、武器を持たずに、どうしてこの時代、この脅威の中をやっていけるのかという問いが聞こえてくる。甘い!という声は、確かに私たちをびびらせるのだ。そこで大事になってくることは、「なぜ」を問うのが、そもそも人間であるというのだ。人が、当たり前と言って突き進む時、そこでなお、「なぜ」を問い続けていくのが、人間だと。まったく、同感である。
たとえば、憲法9条は、その「なぜ」を問う、「足がかり」なのだと思う。足がかりをなくしたら、それこそ力で勝負する、力の均衡を維持する、という世界観しか残らないのです。歯止めが効かなくなり、いっときは安心だと思えても、「結局、人を苦しめ搾取や暴力を生み出すだけです」。それは、歴史が証明している。力を持った国が、そのままの栄華を維持した例はない。

今日の抑止的平和論に対して、なぜ、を問い続けるために、9条があるのだと思う。そこに、人間らしい営みがあると信じる。

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by rev_ushioda | 2011-02-11 17:05 | Comments(0)

「蓼川のような」

私が前に住んでいた土地に、蓼(たで)川(がわ)という川が流れていました。昔はその辺りに蓼という草が生い茂っていて、それが川の名前になったのでしょう。厚木飛行場の中を流れ、やがて引地川に吸収される、全長7キロくらいの小さな川です。
ところで、この川には水源がありません。昔はあったのですが、今は埋め立てられ、クリーニング工場になってしまったのです。では、そこを流れている水は何かと言うと、その工場の排水であり、近くの家々から流れ出る生活排水なのです。そうなると、これはもう、生きた川などではなく、実は命のない川になってしまっているのです。
私はこの話を聞いたとき、私たちに似ているなあ、と思いました。水源がない。つまり、人を本当に生かすものがなく、あってもそこにつながっていなくて、生活排水が流れているような人生に似ている、と思ったのです。ただ日々の生活を処理しているだけで、それで、毎日けっこう忙しくはしていますが、生きているように見えますが、実は生きていないのです。
聖書を開くと、私たちは、私たちを造ってくださった方から離れ、勝手に好きなことをやっている、という人間理解を示します。つまり、水源を持たず、的外れの人生を歩んでいるから、たわいもないことで不安や恐れを感じ、人間関係においても、ねたみ、争いが絶えない、と言うのです。あなたがこの人間理解に賛成する、しないはともかく、どうでしょうか。あなたは自分と調和し、人とも調和して、豊かな歩みを営んでいらっしゃいますか? ある年配の方が、自分には何の問題もないと言われました。ところが、そのご家族が、おじいちゃんの頑固には困っている、と周りに漏らされました。自覚しているか、いないかの問題であって、私たちは、どうもあの蓼川のように水源を失って、自己中心的な生き方をせざるを得ない者のようです。
どうでしょうか。人生の創造者、水源となってくださるキリストという方に、今、少しだけ、あなたの顔を向けてご覧になりませんか。
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                   写真は、綾瀬市のホームページより

後日、「蓼川・比留川の姿 - 橋とともに」という、蓼川の源流をたどるホームページを見つけた。その中の、蓼川源流地帯 というページを開くと、写真が豊富で、また、なかなかの労作であることが分かる。そして意外だったのは、どうやら、源泉はあるようだ。どうやら、というのは、源泉の最終確認までは、していないからである。それにしても、なぜ私が上のような文を書いたかというと、1985年2月6日、朝日新聞に「小さな川の二月」という記事があり、そこに水源のない川として紹介されていたからである。

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by rev_ushioda | 2011-02-10 23:13 | Comments(0)

「鎌倉散歩」

ちょっと息抜きに、鎌倉の源氏山に行って来た。例によって「私の散歩道」100選にある、その一つのコースである。そしてもう1冊の雑誌、「鎌倉を歩こう」を手に、午後になってから、出かけた。
鎌倉は、どこに行っても、神社仏閣である。当然、今回も「佐助稲荷神社」「銭洗弁財天」という有名所を巡るコースとなる。古都がこのような宗教施設に囲まれていたことに思いをしながら、1時間半の散策の後、小町通りの人ごみのなかに、ちょっと引っ込んだところにひっそりと佇む和風レストランを発見、お汁粉と抹茶が、何ともおいしかった。



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by rev_ushioda | 2011-02-08 00:20 | Comments(0)