「手ぶらでよい」

運動会のシーズンになると、私の娘が幼稚園児だった時のエピソードを思い出します。先生に連れられて、園児たちがグラウンドの真中に出ていき、さあ、これからお遊技が始まろうとしたその時、一人の子どもが列から飛び出て、周りで見ているお母さんの方に向かって駆けてくるではありませんか。「よくこういう子っているんだよなあ」と思って見ると、何と、それはうちの娘でした。妻の方に向かって駆けてくるのです。せっかく練習してきたお遊技も披露できず、泣きながら手ぶらで駆けてくる娘に向かって妻は手を差し伸べ、だっこしていました。考えてみると、外側からは自分の子どもがどこにいるか、よくわかるのですが、子どもにとっては周り中人垣の中にいて、その中のお母さんをよく探せたと思うのです。お母さんを信頼するということは、こういうことか。すごいなあと思いました。

聖書に、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とあります。
神さまが受け入れてくれる人は、きっとあの時の娘のように手ぶらで飛び込んで来る人だということなのです。良い行いを積んで、知識も増やして、性格も良くなって、よしこれでいいだろうというのは、この世の順序であって、神さまはどうも、それはお求めにはなっていないようです。まず、空っぽの手で、信頼して飛び込んでくる人を、神さまは探しているようです。問題があってもいい。途方に暮れていてもいい。清くなくていい。「敬虔な」信仰さえ、なくてもいい。神さまは、何もなくても、存在そのものを喜ばれるのです。「子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」キリストは、あなたにも手を置いて祝福されるのです。あなたは何も良いもの、誇るものがないと思っているかも知れません。しかし、キリストはあなたを祝福されるのです。

泉教会は日曜日、朝10時30分の礼拝で、あなたをお待ちします。電話番号は、045-803-1749。教会には、相鉄線、いずみ中央駅、または市営地下鉄、立場駅下車、歩13分です。相鉄線、市営地下鉄は、共に横浜もしくは小田急線湘南台から出ています。

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by rev_ushioda | 2010-10-29 09:36 | Comments(0)

「歩く旅」

聖書には、「歩く」ことが、信仰と同じように書かれている。
私はブログランキングに登録しているが、そのカテゴリーは、「歩く旅」である。旧街道を歩いているからなのだが、しかし、それができるのは年に数回。ランキングから期待してやってくる人には申しわけないくらい、カテゴリー名にはふさわしくない内容ばかりではないか、と思うこともある。
しかし、日々の生活こそ、まさに歩く旅なのである。信仰によって歩く。光の中を歩く。キリストが歩かれた道を歩く。「歩く旅」には、そういうことが暗示されているのだが、さて、分かる人はどのくらいだろうか。


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by rev_ushioda | 2010-10-25 09:50 | Comments(0)

「葬礼拝説教」

人には、様々な人生があります。そのいずれも、うまく生きようと思っても、なかなか、そうならないものがあります。

Kさんは、寝込んでからですが、娘さんの話によると、こう言われたそうです。「自由に生きさせてもらいます」。それを聞いて、Kさんを知っている、ほとんどの人は、思い切り自由に生きたじゃないか、と思うかもしれません。しかし、なお、そう言いたい気持ちがある、ということではないかと思います。
また、こうも、言われたそうです。「いいおじいさんと言われたい」と。「いいおじいさんと言われたい」というのは、そうありたい、しかし、現実はなかなかそうならないということでしょうか。自分は、うまく生きたいと願っている。なのに、失敗してしまう。しかしこれが、およそ、すべての人間なのではないでしょうか。こうありたいという希望と、現実の違いを、私たちは自分なりによくわかっているのではないでしょうか。
「いいおじいさんと言われたい」と聞くと、近くで知る人は、いまさら何を言っているのか、と思うのかも知れません。本人の気持ちは、しかし、やはりそういう言葉の端端に現れてくるのでしょうか。こうありたい、しかし、現実は、なかなかそうはいかないものを考えていたのでしょうか。そして、それが人間というものなのです。

そうであるとしたら、では、生きる意味はどこにあるのか、ということになります。聖書にはたくさんの人が出てきますが、そういう人々の足跡は、私たちに大事なことを語っていると思いますので、葬儀に際して、1箇所、引用させていただきました。
ここには、ヤコブという人のことが書かれています。この人は、兄との関係が、どうも、うまくいかない。生まれたときからうまくいかなかった。兄との確執をずっと引きづって来たのです。しかし、どうやらそれはお母さんが子どもたちを愛する愛し方に問題があったようだと聖書は言っています。詳しく言う時間はありませんが、家族の中でさまざまな確執があったのです。聖書の人にさえも、そういう問題があったことを聖書は隠していません。
いずれにしても、ヤコブは兄から「殺してやる」と言われ、そこでお母さんが私の親戚を頼りなさい、というわけで、旅に出ることになった。夜、石を枕に眠る。その時の話がここに引用した聖書の言葉なのです。寝ているヤコブのところに、天につながる階段がおりてきて、主(神)がそこに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である」と。

父親がイサク、祖父がアブラハムです。こういう名前を見るときに、そこには、それぞれの人生があったことを思います。
ヤコブのお父さんイサクが生まれる前、実は、祖母は高齢で出産をあきらめていたのです。そこで祖母は、その家にいた召使の女によって夫アブラハムに子どもをもうけさせていた。ところが、その女奴隷は、子どもを身ごもったと知るや、祖母のことを見下すようになっていくのです。祖母は、夫アブラハムに、この召使いを追い出すように言い、アブラハムは、仕方なく、そのようにしてしまいます。ここに見えるのは、家庭の混乱です。これがアブラハム。祖父の家庭でした。
やがて、高齢ではありましたがこの祖母夫婦に、ヤコブのお父さんになるイサクが生まれるのです。このお父さんのイサクはイサクで、飢饉のために土地を点々とする先で、人が妻を奪おうとしたらどうしようか、心配になる。そうしたら自分が殺されるかもしれないと心配した。それで、自分たちは夫婦であると言わず、妻を妹と偽ったことがありました。自分中心というか、妻を守れない優柔不断な男の姿があります。

さて、今、簡単にこのアブラハム、イサクの話をしたのは、それぞれに失敗があり、弱さがあり、夫婦、家族の問題があったということをお話したかったからです。ヤコブの父親は、イサクです。おじいちゃんはアブラハムです。皆、それぞれにうまくいかないことも多々あったのです。しかし、神さまは言われるのです。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である」と。ここが大事です。
神さまの方では、この人の神、この人の神と、恥じることなく言ってくれる。あのような、情けのない人、あのような、欠けの多い人を私は知らない、とは言わない。
神さまは、人間の失敗も、欠点も、恥も、何もかも引き受けて、「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である」と言われるのだと思うのです。私たちがどう思おうとも、神が人の名誉を守る、と言ったらよいでしょうか。だから私たちは、色々な思いを引きずらず、この神さまに、一切、任せておけばいいのです。
 そのアブラハム、イサクから、 ヤコブが生まれる。

ヤコブも、そう望んだのではないにしても、兄弟との仲が良くなかった。だから、こうして野宿してまで、親戚を頼る。ヤコブが、兄と仲たがいした理由は、ヤコブの嘘が原因でした。
血は争えないと、よく言われます。お父さんイサクが妻のことを妹ですと嘘を言って、自分の身の安全を図ったと言いましたが、お話しませんでしたが、実は、おじいちゃんアブラハムも、同じことをしていたのです。うそを引き継いでいるのです。そういうことが続いていくのです。ですから、この家族は、うそをつく弱さを引き継いだと見てもいいのかも知れません。

しかし、(聖書の各世代について長く話しましたが)聖書が言う大事なことは、人間の弱さの連鎖の話ではありません。そうではなく、各世代は、神さまの祝福をこそ、受け継いだということなのです。ヤコブへの祝福の言葉を、私たちはここに読むことが出来ます。人間の弱さを越えて、神さまの祝福のほうが強い、ということを聖書は書いているのです。

娘さんたちは今、信仰をいただいて、キリスト者として日々、歩んでおられます。下の娘さんは、Kさんがなくなった日、洗礼30年を迎えられた。翌日は、姪のKMさんが25年を迎えています。だから、二人の娘さんたちは、キリスト者となるために生まれた、と言えるのではないでしょうか。キリストにある新しい命を引き継ぐために、このご両親から生まれた、と言えるのです。生まれなければ、こうして、信仰に生きることはできなかったからです。キリスト者になるために、そこに、ご両親がおられたのです。神さまは、そのようにしてご両親の存在を一方的によしとしてくださっていたのだと思います。

聖書を見ると、神さまは私を母の胎内から見ておられた、いえ、天地創造の前から選んでおられた、と。しかし、もう一度繰り返します。いくらそのように選ばれていたとしても、そこに親がいなければ、人生は1日だってありません。子どもたちを信仰に生かすため、Kさんは、その存在が備えられたのです。神さまが備えてくださった人なのです。そうでしょう?
アブラハムもイサクも、そしてヤコブも、聖書を読んでいくと、やがて「アブラハムの神、イサクの神で、ヤコブの神」と、そのように言われるのです。ヤコブにも人一倍、弱さがあったのです。しかし、神さまから見れば、誰も、何も変わらない。神さまは、おそらく「Kさんの神」と言われることも、恥としない。こうして、祝福を家庭に、祝福を親戚に、そして祝福を世に、満たそうとされるのです。私たちは、その祝福を受け継ぐ人なのです。そのために生まれた。そして人生を与えられた。そこにKさんがいた。

Kさんの葬儀をきっかけに、私たちは皆、神さまから祝福に招かれていることに気づきたい。招かれているのは、次の世代に、祝福のバトンをこそ、確実に渡すためです。私たちは、招いてくださった神さまに向かって、今、この器を差し出していきたい。残りの人生を、神の祝福をこそ、広めるために差し出していきたい。そういう仕事をしたい。そういう信仰に生きていきたいと、思うのです。
 
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by rev_ushioda | 2010-10-20 16:39 | Comments(0)

「親は子の牧師」

私は牧師ですから、病院にお見舞に行くことがよくあります。ある時、小さな男の子が喘息で病院に運ばれ、私もすぐに行ったのですが、処置がきついらしく「痛いよ、痛いよ」と泣いているのです。それを聞いているうちに、どうも感情が伝わってきてしまい、クラクラ・・と。貧血を起こしやすい私は、とっさに外に出て座り込んでしまいました。何ともなさけない牧師なのです。
一方、その子のお母さんですが、別の時、お子さんがまた入院し、今度は熱性けいれん。普段とは違ううつろな眼差しのために、危機感を募らせ、もう、どうしてよいかわからなくなったそうです。けれどもそこで気をとり直して、とにかくベッドの脇でこう言いました。「まーくん(その子はまーくんと呼ばれていました)、かみさまにおいのりしようね」。すると、今までうつろだったまーくんが「かみさま?」と言って、ベッドの上にちょこんと座り、お母さんの顔を、しっかり見つめたのです。
お祈りしよう、という呼び掛けで自分を取り戻してくれたことが、途方に暮れていた母親として、何よりもうれしかったと、このお母さんは話してくれました。
子どもが病気の時、また、苦しむ時、その時にこそ「いつものようにお祈りしよう」と言うことができる親は、また、そう言ってもらえる子どもは、何と幸いかと思わされました。祈りは、このように確かに人を現実に引き戻すのです。親もまた、途方に暮れず、つまらぬ迷信に走らず、冷静に看病し、医師に信頼して、正しく治療を受けることができるのです。
子どもが入院すると、牧師に来てもらい、祈ってもらいたくても、場合によっては親だけしか入れないということもあります。家であっても、夜中とかとっさの場合は、そこでは親がしっかりしなければなりません。その時に「さあ、神様に祈ろうね」と言うことができる親は幸いです。その時、親は子どもの牧師になるのです。親のもっとも光栄あるつとめではないでしょうか。ぜひ、皆さんに祈ることを学んでほしいと思います。

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by rev_ushioda | 2010-10-11 22:22 | Comments(0)

「夕礼拝スタート」

今日から、日曜日の夜の夕礼拝を開始した。いくつかの教会でも夕礼拝は実施している。私たちの教会でも、礼拝のチャンスを1回でも失ってほしくない思いから、朝だけでなく夕方にも行なうことにした。これはちょっと冒険でもあったが、とにかく開始。
気合?は十分だったが、予想通りと言うべきか、そんなことを予想している信仰不足からなのか、出席者ゼロであった。しかし、待つ時間のわずかでも、夜の静かな礼拝堂でじっと黙想する、良い時間を与えられた。昼の忙しい一日がうそのような、豊かな時間であった。人が来ても来なくても、私たちにとっては、貴重な主日夜のひとときとなるようだ。
そうは言っても、昼には出ることができなかった礼拝、夜にも、まもることができる。ぜひ、夜も来てほしい。

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by rev_ushioda | 2010-10-03 22:38 | Comments(0)