今年の夏、連日の猛暑のため、信じがたい出来事が起こった。
余りの暑さのため、礼拝堂のガラスが割れたのだ。 全体にひびが入って、上のほうからぽろぽろ崩れてきている。人が出入りしない一日、締め切った礼拝堂の室温がかなり上がったためらしい。こんなことって、あるの???

いや、そんなことは、ない。 (^^;

ガラス屋さんに来てもらって、見た瞬間、
「ああ、強化ガラスだねえ。」
強化ガラスは、割れると、隅から隅まで全体にひびが入るのだそうだ。
「フィルムが貼ってあるでしょう、だから崩れ落ちないでこうなっているんですよ。」
何かの力がかかって、粉々に崩れ落ちる…はずだったのが、地震対策に貼ってあったフィルムで、崩れ落ちなかったのである。な~んだ、色々、妄想していた私は、「室温が上がると割れることはありますか?」なんて、恥ずかしくて、とてもきけなかった。
それにしても、「けっこう力がかかっても、割れることは滅多にないんですよ」という話に、では何があったのか、それは不明のままである。

これが、今までのガラス
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これが、割れたガラス(上から下まで、全体に、このようなひびが入っている)
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by rev_ushioda | 2010-08-26 01:14 | Comments(0)

大岡越前の守と言えば、誰もがよく知っている時代劇のヒーローです。実は私が19年間住んだ座間市の広報に、座間市は大岡越前の守と関係がある、ということが書かれていたので興味を引かれました。
今から250年前、大岡越前の守が南町奉行であった時のこと、座間市で境界線をめぐってこぜりあいが起こったそうです。当時の座間村と栗原村という二つの村の境界線をめぐってのこの土地争いは、やがて「評定所」(今で言う、最高裁判所というところでしょうか)に持ち込まれることになりました。そこで、大岡越前の守のご採決ということになったのです。他の何人かの奉行との連名判決の古文書が残っています。
さて、それで一件落着したかと言うと、実は、その後、明治8年になってこの争いが蒸し返されることになり、またまた4年以上の歳月をかけて争った結果、大審院という、これも最高裁判所のようなところでしょうか、そこでの裁判に持ち込まれていった、というのです。さしもの大岡裁きも、座間市では通用しなかったということでしょうか。
こうして、本当にやっかいなのは実はこのような土地の境界線争いを繰り返し引き起こす、人間そのものだということがわかります。人間関係の中で自分の「分」を譲らず、主張し、引くことを知らない。これこそ、大岡裁きであっても容易に解決しない難しい問題なのです。聖書に、こう書かれています。「人から出て来るものこそ、人を汚す。…人間の心から、悪い思いが出て来るからである」。
表向きはどんなに良くても、人間が内側から出て来るもので支配されているとしたら、情けないではありませんか。─ キリスト教が大事にするのは形や体裁を整えることではありません。そうではなく、内なるものに自由、平和、命が与えられることです。キリストは、あなたが創造的に生きることができるように招いているのです。あなたも、内なる自由をお持ちになりませんか。

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by rev_ushioda | 2010-08-23 21:30 | Comments(0)

「祈りが・・・」

9月12日のコンサートに向けて、ハラハラ、ドキドキの毎日を過ごしている。
まずはチラシ、チケット、これは自分でデザインしたが、素人なので、不満足感、後悔を引きずることになった。
そして、そのチラシ配りであるが、4000枚をほぼ配り終わったが、これがどこまで配ったらいいか、見当がつかない。どのくらいの人が来てくれるか不安なので、増刷して配ろうとすればできるのだが、しかし、それでは際限がない。
打合せも、私はホールでのコンサートを主催した経験がないから、ゲストが、どこまでをどのようにするのか見当がつかなかった。協賛出演団体との連絡、依頼もしなければならない。舞台監督に任せるべきことは何か、さえ、分かっていないので、ゲストに無用の質問をしたりして、舞台監督にあきれられたり(あきれられたかどうかは分からないが・・・)。
1ヶ月を切ったので、ホールとの打合せもしなければならないが、夏休みなので忙しいのか、なかなか日程の折り合いがつかず、これもまた、忙しい人に舞台監督をお願いした手前、いったりきたりの調整に心身すり減らす思いだ。
できるだけ多くの方に郵便で案内しなければならない。また、後援団体、協賛団体へのチケット依頼、当日の奉仕者の確保、配分、今後はパンフレットの編集。当日は日曜日だ、そうだ、ホールでの説教をどうしようか。時間は、いつもよりかなり短い。これは、よく考えなくては、などなど。
もう、来年はやめよう・・・今は、そんな思いの中で、自分が始めたことだ、頑張ろう、と猛烈に自分を励まして準備の日々を送っている。


あ、


すべきことに忙殺されて、祈りがなかったのかも知れない。祈っては来たが・・・ 祈らないわけではなかったが、祈ってなかった、ということだったのかも知れない。それでは、勝利するはずはない。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し・・・」 (ヘブライ11・1)
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by rev_ushioda | 2010-08-19 22:05 | Comments(4)

「複数の礼拝時間」

どの教会でも、主日礼拝は、たいてい朝10時30分頃に行なっている。なぜその時間かと言えば、私たちの生活リズムから考えて、一番都合が良いということであろう。その時間に決まっているわけではない。しいて言えば、「週の初めの日の明け方」(マタイ28・1ほか)という時間帯が一番、ふさわしいと言えるだろう。しかし、それは、「生活リズム」に合わないのである。落ち着いたのが、朝10時30分頃の時間帯であった。

しかし、「生活リズム」も多様化している現代にあって、複数の時間帯で礼拝を考える教会も多くなっている。私たちの教会でも、夜の礼拝を開始することになった。礼拝に出れないとき、礼拝のチャンスを逃したまま1週間を無為に過ごすことのないように、という配慮からである。単に場所が手狭になったという理由ではない。礼拝のチャンスを失うな、ということである。だからと言って、夜に礼拝している教会があればどこの教会でもいいというのは、節操がない。自分の都合に礼拝を合わせればいい、ということになるのだ。「それぞれ自分の目に正しいとすることを行なっていた」(士師記21・25)では、いかにも節操がない。

自分の教会で正規に提供される礼拝時間を大事にすることで、そこに信仰が育てられるのである。泉教会は、礼拝の選択肢を今後、複数、提供する。だから、その時間を、必死で選び取っていただきたい。

 毎日曜日         :朝礼拝  朝10時30分
 第4日曜日を除く日曜日:夕礼拝  夕7時

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by rev_ushioda | 2010-08-15 23:50 | Comments(0)

説教の準備をしていて、讃美歌「キリストにはかえられません」について考えているとき、佐藤昭三という人の次の記事に出会った。心に残ったので、ここに紹介しておこう。転載不可とはなっていなかったので、大丈夫かな?出典は下に記載。

以下、転載文。

それは今から24年前の古い話ですが、1984年(昭和59年)12月の或る日

私は大手町の日経ホールに「佐藤則子・イタリアオペラの夕べ」というリサイタルに行きました。
佐藤則子さん(注)は当時オペラの本場イタリアで屈指のオペラ劇場、ミラノスカラ座の専属、しかもプリマドンナ(オペラの主役女性歌手)として活躍中のソプラノ歌手でした。

中略

さて当夜、会場の椅子に座り、おもむろにプログラムを開いて “おやっ、これは何だ”と怪訝に思いました。その夜の曲目は10曲で、最初の曲がヘンデルのオラトリオ「ヨシュア」からである他、2曲目から9曲目までが、ヴェルディ、プッチーニ、ビゼー等のオペラの名アリアであったのは当然でしたが、最後の曲が讃美歌「キリストにはかえられません」と印刷されているではありませんか。
この音楽会は、キリスト教とは無関係な一般向けの企画ですから、このプログラムを見て私がいささか戸惑ったことは、皆様のご想像に難くないと思います。

中間に休憩をはさんで、プログラムは予定通りに進行、私が予てから知っていた曲は3曲ほど(その内の1曲は、プッチーニの蝶々夫人からの“ある晴れた日に”)しかありませんでしたが、知らなかった曲も、歌手の優れた歌唱力によってそれなりに楽しんで聴きました。そして9曲までがすべてイタリア語(多分)で歌われ、最後に前記の讃美歌が日本語で歌われて終わったのでした。
普通に考えれば、プログラムの最後を飾る曲は、イタリアオペラ名アリアの中で彼女が得意とする曲、あるいは聴衆が喜ぶであろうイタリアオペラの中のポピュラーなアリアではないでしょうか。

讃美歌第Ⅱ編195番(注)のこの曲の歌詞は次の通りです。

  1 キリストにはかえられません、 世の宝もまた富も、  
    このおかたがわたしに     かわって死んだゆえです。
      (くりかえし)
    世の楽しみよ、去れ、     世のほまれよ、行け。
    キリストにかえられません、  世のなにものも。

  2 キリストにはかえられません、 有名なひとになることも、
    ひとのほめることばも、    このこころをひきません。

  3 キリストにはかえられません、 いかにうつくしいものも、
    このおかたでこころの     満たされているいまは。

  (注)讃美歌Ⅰ~Ⅲ編は、21世紀を迎えるに当って、1997年に大改定が行われ、
        讃美歌21に代わりましたが、この曲は讃美歌21では522番として、
     歌詞・メロディーともにそのまま引き継がれました。

上記の通りこの曲は、キリストが私に代わって死んで下さった故に、世の宝も、富も名声も、いかに美しいものも、何物をもってしてもキリストには代えられません、という信仰告白の歌です。この夜彼女が最後にこの讃美歌を、その前後に何の説明もつけず、何の気負いもなく、ごく当たり前のように歌い終った時に、私は、ああそうゆうことだったのかと気付きました。 聖書はキリスト者に対して次のように促しています。
「み言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(新約聖書:テモテへの手紙二 4章2節・・・・新共同約) 

オペラ歌手として相応な名声と地位を確保した彼女が、その美しい声で会場の聴衆を魅了したその直後に、富も、名声も、いかに美しいものも、キリストには代えられませんと歌わずにいられなかった、真摯な思いの一人のキリスト者の姿をそこに見たのでした。 この讃美歌はその優れた歌詞とともにメロディーも美しく、私の愛唱讃美歌の一つとなっていますが、この曲を唄うときにはいつも、あの夜のことを思い出すとともに、名声や、富や、世の快楽に心をひかれる己の姿と思い比べて、ひそかに恥じている次第です

出典・原文 → http://www2.tranzas.ne.jp/~smikio/kirisuto.htm

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by rev_ushioda | 2010-08-15 07:29 | Comments(2)

「汗を流す」

8月は、チラシ配布である。
この数年は、毎年、そうしている。昨年は塩狩峠、その前は地域への全戸配布、その前は10周年記念礼拝案内というように。今年は、9月12日のラニーラッカー・ゴスペルコンサートの案内である。
暑さの中、思いっきり汗が出る。いつもは「冷や汗」ばかり流しているが、こうして主イエスさまのために体中から汗を流す体験は、なかなかいいものだと思う。汗を流して歩き回ると、ふと、ああ、主イエスさまの弟子だなあ、なんて思ったりする。いつもは、あまり体を動かすことがない牧師は、時々、こういう訓練を受けるとよい。いや、考えてみたら、この30数年間、最初から今日まで、チラシ配りの連続だった。配っても配っても、そう簡単に人は来ないが、自分自身にとっては、きっと良い訓練を与えられているのだと思う。

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by rev_ushioda | 2010-08-10 14:42 | Comments(0)

「私たちは変えられる」

「あ、ザリガニ、死んじゃったよ」ある時、そう言う子どもの声で、バケツのそばに行きました。見ると、今まで動き回っていたザリガニが水の中でフワリフワリ。
「本当だ」。でも、もう一度よく見ると、岩の陰にもう一匹いるのです。実は、死んだのではなく、それは脱皮した抜け殻だったのです。もう一匹いると思ったのは今までのザリガニで、ひとまわり大きくなって、しかも、何と、今まで片手がなかったのに、少し小さいけれど手がちゃんと生えているではありませんか。子どもそっちのけで、親の方が真剣に見入ってしまいました。一回り体が大きくなって、それだけでなく欠けていた手が元通りになるのを見た時、脱皮という自然の営みの不思議、すごさを思いました。
さて、私たちにも、そういうことが起こるのです。回復の日がある。聖書に、こう書いてあります。「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときは弱いものでも、力強いものに復活するのです」。もっとはっきり言えば「キリストは、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある形に変えてくださる」。
さて、あなたは自分に失望する時があるでしょうか。自分が情けなく思う時があるでしょうか。不安になったり、空しくなったりすることがあるでしょうか。私たちが目の前の現実で潰れそうな時、自分の弱さの中で思いが堂々めぐりしている時、しかし、キリストはその私たちを、すでに神の国で変えられた者として見ていてくださる、というのです。形が変えられるだけではなく、私たちの中に朽ちない、輝かしいもの、つまり人間の、人格の尊厳を見ていてくださるのです。
このキリストの眼差しの中で、だから、私たちは希望をもって生きることができる。生活の折々、現実の重荷に潰されることなく、しっかりと生きることができるのです。あなたも日曜日、泉教会でイエス・キリストに向かって心を高く上げてみませんか。
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泉教会の最寄り駅は、相鉄いずみ中央、または地下鉄、立場です。電話番号は、045-803-1749 です。いつでも、あなたのおいでをお待ちしています。

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by rev_ushioda | 2010-08-04 09:00 | Comments(0)