「小学校で講演」

今日、区内の小学校で講演。テーマは、「子どもの気持ちを聴くということ」
私は時々、学校での、こうした講演の機会が与えられる。5、6年前には、今日の学校(東小学校)の隣の学校(西小学校)でも講演した。おそらく、私がCCC認定カウンセラー2級、NPO法人心を聴く市民ネットワーク講師であり、2004年~2008年は「よこはまチャイルドライン」の研修講師であったためである。それでも必ず泉区にある教会の牧師さんです、と紹介してもらうので、証しにつながるはずだ。
講演時間は1時間半であったが、ワークなども入れたので語りきれず、用意した内容をだいぶ端折る結果になった。参加された40人くらいの皆さんのお役にたてただろうか。

レジメは、以下のようであった。

序.いい話の「ツボ」

1.私たちがしていること

      感情の言語化を阻んでいる

      非受容の言葉を使っている

2.共感と受容
  
  共感:共に感じること
 
      反射/開かれた質問/明確化
  
  受容:状況を受け止めること

      うなずきやあいづち/繰り返し
    
3.期待する「物語」が生まれない理由
  

4.過去と他人は変えられない


まとめ

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by rev_ushioda | 2009-11-30 18:13 | Comments(2)

「繋ぐ」

新聞を見ていたら、最近は時間の切り売りと言いましょうか、バイキング形式のレストランで「分単位」で食事料金が計算される。駐車料金も、かつては1時間単位だったのが10分単位になったとか、細切れ化が進んでいる、という記事でした。時間がない現代人には、分単位で物を売るのが流行るのだとか。何か、せち辛いですね。
西サモアにウポル島という島があり、そこの酋長の演説集「パパラギ」という本があります。パパラギというのは、彼らの言う、白人のことです。白人は一日を細切れに刻み、時間というものに追われ、時間がない、時間がないと言って生活している。また、職業というものを持っていて、一人の人が毎日、同じことをする。だから仕事のことを話す時、ため息をつく。しかし、サモアの若者は、歌を歌いながらタロイモを掘りに行ったり、ほかのこともする。時のくるままに時を愛してきたし、十分な時間を持っている。このように、書いてありました。
同じ時間を持っていながら、私たちは時間を細切れに刻み、時間がない、時間がない、と言っているのに、サモアの人々は時間と時間をつなぎ合わせて十分な時間があると言うのです。私たちはお互いばらばらですが、サモアの人々は違ったものを結び合わせて、一緒に生き、一緒に働き、一緒に休むのです。
つなぐ発想、結ぶ発想で終始しています。
では、聖書は何と言っているかというと、まさにこの「つなぐ」発想なのです。キリストは私たちの平和であって、二つのものを一つにし敵意という隔ての壁を取り壊したのだ、と言います。キリストが私たちの平和なので、私たちには「敵意」という隔ての壁がなくなるのだ、と。細切れ社会の中にあって、このメッセージに耳を傾けたいのです。人間をつなぐ新しい世界を、聖書によって造ることができます。

泉教会は、人と人の間にキリストの平和を満たす教会です。あなたも日曜日、朝10時30分の礼拝に、どうぞお出かけください。泉教会の最寄り駅は、相鉄線いずみ中央駅、または市営地下鉄、立場です。電話番号は、045-803-1749 です。

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by rev_ushioda | 2009-11-29 23:37 | Comments(0)

「AVE MARIA」

これ、今度の区民クリスマスで歌うのですが、
これを歌うって、わたしの信仰と、どう関わらせたらいいんだろう…
^^;

Sancta Maria, ora, ora pro nobis

曲と意味 → http://blog.goo.ne.jp/silvang0605/e/9a8bc69a35549bbbf7ff99bcb9945e39

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by rev_ushioda | 2009-11-28 20:21 | Comments(0)

「天使のパン」

「降誕節に相応しいと思います」と言って、「天使のパン」を紹介してくださった方がおられる。そういえば、どういう意味だったのか、調べてみたが、どうも納得いかない。といって、原語では歯が立たない。下に、英語からの私訳を試みたが、怪しいかも、である。
ベルギー生まれのフランスの作曲家セザール・フランクの作曲、作詞は、かのトマス・アクィナス(中世の哲学者・神学者)であるとか。

Panis angélicus
Fit panis hóminum,
Dat panis coélicus
Figúris términum.
O res mirábilis:
Mandúcat Dóminum
Pauper, servus
et húmilis.

(英訳)
 Bread of Angels,
 made the bread of men;
 The Bread of heaven
 puts an end to all symbols:
 A thing wonderful!
 The Lord becomes our food:
 poor, a servant, and humble.

原語の歌は → 

(富田裕訳詞)
 天使のパンは
 人間のパンとなり
 天上のパンは
 見えるものとなる。
 おお何と驚くべきことだろう、
 神のからだを食べるのが
 貧しく、哀れな
 卑しいしもべであることが。


(松田紳訳)
 天使の糧(パン)は
 人々の糧となりました。
 天からの糧は
 形あるものに変わりました。
 なんと素晴らしい事でしょう。
 (天は)憐れな者たちや奴隷たちそして卑しき者たちに
 主を(糧として)与えられたのです。

(鎌田紳爾訳)
 天使の糧は
 人々の糧になり、
 天の糧は
 形あるものを終わらせられる。
 おお、なんという驚き、
 主よ
 食するのは 貧しき、貧しき虐げられし僕(しもべ)。

(カトリック聖歌集)
 天使のパンは
 人のパンとなった天のパンであって
 旧約の前表を全うした。
 ああ、感嘆すべきことよ、
 貧しいもの、しもべ、および卑しい者が主を食しまつるとは

英訳の symbols とは、旧約時代のイエス・キリストを指し示す「予表」だと分かった。つまり献げられたイサク、出エジプトの旅で食べたマナ、その他、過ぎ越しの食事、神殿、祭司、祭司が行う犠牲、等々の意味である。それらは、みな、イエス・キリストの「予表」であるという理解(カトリックでは「前表」と言うのか…)。そのことをふまえて、次のように意訳してみた。

(英訳からの私訳)
 天使のパンは
   人のパンとなった
 その天のパンこそ
   ついに人が待ち望んでいたもの
 何とすばらしいことか
 主は、私たちの糧となられる
   貧しい者、虐げられた者、身分の低い者の糧と!


(servant は、やはり、素直に「しもべ」がよかったかな)
「天使のパン」はそれ以外に訳しようがないので、そうしたが、カトリックの理解なのだろうか。よく分からない。そういえば、 カトリックの典礼で使われる(らしい) 「ラウダ・シオン」 Lauda Sion Salvatorem の【21】 に 次のようにある。

ECCE  PANIS  ANGELORUM,
Factus  cibus  viatorum:
Vere  panis  filiorum,
Non  mittendus  canibus.

見よ、旅人である人間の糧となった天使のパンを。
これこそ子らのまことの糧、
犬へ投げやってはならない。

ここにも「天使のパン」が出てくる。どうもカトリックでは「天使のパン」は、一般的なようだ。そして、「Panis angélicus」と共に、カトリックの聖体拝領のときに歌われる。そういう理解から来ているとしたら、聖書的には理解するのが難しい…

まあ、ここは「詩的」な表現としてとどめておこう。

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by rev_ushioda | 2009-11-26 21:54 | Comments(0)

「覚悟」

毎年、11月23日が近づくと、一つの覚悟が求められる。だから、必然的に、数日前からイメージトレーニングをもって、「会議」に臨むことになる。 ^^;
覚悟と言えば、「キリスト新聞」の論壇に、徳善義和先生が、書いておられた。八ッ場ダム建設中止ということから書き出して、誰も責任を取らない、ということであっていいのか、という自論であった。最後に、
「問われるのは、こうした計画の背後にあるはずの顔である。…顔は責任である。…キリスト教界にとっても、これは他人事ではあるまい」。
しばらく前に、峰山伝道所が閉鎖される話の中で、教会の建物の管理の議論が続く中、当時、中会議長であった私に、その伝道所のY牧師が言われた。「何かあったら、あなた、の責任ですよ」。もっともな話である。議長は毎年、選挙で選ばれる。代わってしまうのである。しかし、この件に関しての「顔」はあなただ、という指摘を私は忘れない。

11月23日というのは、中会議長が新たに選出される日である。今回、それは私ではなかったが。

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by rev_ushioda | 2009-11-24 10:08 | Comments(0)

平和の議論において、足元をすくわれないところが大事だといつか書いたが、ある映画を思い出した。1935年、ずいぶん昔だ。テキサスが舞台か… カンバーランド長老教会と重なる。

黒人が酔っ払って暴れて、暴発した弾が保安官の命を奪う。その後の一家は、困難な生活を余儀なくされる。黒人モーゼスとの出会い。しかし、KKKがモーゼスを襲うなど、時代が反映される。
朝の食前の祈りから始まって、結末が、またいいのだ。何と、礼拝の場面で、映画に登場した人たち(殺された人も) 全員、出てくる! 聖餐式のぶどう酒が、殺された保安官から、彼を殺した黒人に手渡されるのである。(これ、「ネタバレ」と言うらしい…)

つらくきびしい家庭環境、またその時代を描いているが、本当の心の居場所がテーマだ。そして、これは私の感想であるが、私たちの視点をどこに置くかで、現実を見る目も変わってくる。議論のしかたも変わってくる。足元をすくわれないことが大事だ。

聖餐!

「ぴあ映画生活」の感想をつけておきましょう。→ ここ
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by rev_ushioda | 2009-11-21 09:20 | Comments(0)

May the road rise to meet you

願わくは

あなたがたの前に 道が 開かれ

風が いつも 背中を押し

陽が 暖かく 顔に射し

雨が やさしく 大地に降り注ぎ

また会う日まで

神が その手で あなたがたを包んでいてくださるように
 
(アイルランドの祝福の言葉)

May the road rise to meet you.
May the wind be always at your back.
May the sun shine warm upon your face.
And rains fall soft upon your fields.
And until we meet again,
May God hold you in the hollow of His hand.

礼拝で用いることを前提に you を「あなたがた」とし、
しかし、テンポを維持するため、途中ではすべて省いてみました。
1行目の the road rise to meet you はどう訳したらいいのでしょうか。
訳のご批判をおねがいいたします。

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by rev_ushioda | 2009-11-18 13:33 | Comments(5)

「心に翼を」

次の聖書の言葉を紹介したいと思います。「主(神)に望みをおく人は新たなる力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。
神に望みを置け、と言うのです。ハンググライダーという、乗り物があります。ただ大きな翼にぶら下がるだけで、大空に飛び出します。私は、富士山の裾野で見かけました。人間があのような翼にぶらさがって、いったいどこまで飛べるんだろうと思っていたら、テレビで見る機会がありました。うまく気流に乗ると、何と富士山の中腹まで上っていくらしいのです。気流に乗るというのは、すごいものです。
私たちは、あのように大空を翔(かけ)る者になりたい、と思うのです。そう言えば、いつか「心に翼を」という広告を見ました。妙に心をくすぐるコピーだと思ったことがあります。航空会社の広告だったと思います。私たちは、心がいろいろなものに縛られている。心に翼を持って、自由に生きたいなあ、という気持ち。それを、うまくつかんだわけです。
でもその気持ちは、聖書に言わせれば、はるか以前から神が汲み取っておられたのだ、ということになります。「主に望みをおく人は新たなる力を得、鷲のように翼を張って上る」と。
もし、あなたの心がいろいろなものに縛られ、捕らわれていると感じるなら、それを隠す必要はありません。ありのままでいいのです。神は、とっくにあなたの心をご存知です。その上で、心に「翼」をつけてくださる。気流に乗せてくださる。そこから、自分らしい人生を始めることができる。問題は、私たちの方でバタバタしないことです。自分の力でしようとすると、バランスが崩れて、地面にたたきつけられる。気流には、ただ身を任せればいいのです。そして、神さまに任せることのできる場所は、日曜日朝10時30分の礼拝なのです。ここに、どなたも、ぜひおいでください。
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by rev_ushioda | 2009-11-17 11:06 | Comments(0)

「子どもたちに平和な明日を」というテーマのもと、「なかわだ9条の会」が立ち上げられ、また一つ、地域の皆さんと出会いが与えられた。
9条の会は各地で生まれているが、最近になって地元に誕生したのに伴い、成り行きで(?)、私も世話人というかたちになってしまった。「なかわだ(中和田)」というのは、区内の中田、和泉、飯田の文字をとった、便宜的な地区名である。小、中学校の名称にもなっている。それをひらがな表記であらわしたものである。
何度か集まりをもっているが、その「ロースピード」が、何ともいい感じである。何をやるのかさえ、決まっていないところがいい。この種の集まりは、勢い元気になって、何しましょう、やりましょう的な勢いに押されるが、この土地で、少なくとも9条はいいねえ、「子どもたちに平和な明日を」残したいねえ、というだけの集まりがもたれ、その足跡が残されているだけでも、それこそが、ものすごい価値を持っていると思う。
オバマ大統領にノーベル平和賞が与えられるのは、未来の希望を語る者への賞であり、そこに向かって進み出るすべての者に対する賞である。自衛隊がどうこう、政府がどうこうという泥沼(意見は半分に分かれるようなのでそこで議論していたのではずっと平行線のままで実りがない) そういう議論に足元をすくわれない、未来を見つめた「なかわだ9条の会」のスタートが、私自身は、信仰のことがらに重なることと受け止め、評価し、参加している。
いろいろな立場の人がいるが、信仰者もまたこうしたところに立って、先のものに向かってからだを伸ばす現場を作れたらと願う。一緒に、ここに立ってみる人がいないだろか。「子どもたちに残す平和」が最大の「無」関心とならないように…

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by rev_ushioda | 2009-11-16 23:43 | Comments(4)

「葬儀を終えて」

今、すべてを終え、

ほっとした気持で、礼拝堂で次の日曜日の準備をしています。
葬儀に使ったお花が綺麗に咲いていますが、日曜日までもつでしょうか…

昨日は、自宅に戻って、月曜日からの緊張が解けたか、ひととき、寝てしまいました。
葬儀は、家族の最高の痛みと出会うときです。
だからこそ、教会として最高の奉仕ができる、幸いなときでもあります。
教会の皆さんがよく配慮してくださり、たとえ参列されなくても、
また、参列だけであっても、奉仕いただいた方はもちろん、
まだお会いして間もないT姉のために祈り、寄り添ってくださった、
こうして、本当に幸いな葬儀になったと思います。
御家族、御兄弟方、皆さんが、このような葬儀ができたことを、
大変、喜んでおられました。

葬儀の前奏曲は、歌いませんでしたが、讃美歌161番でした。
「みよ、主の家族が共に集まる。なんと大きなみ恵みよ。なんと大きな喜びよ」

召されたM兄もまた、この神をたたえる礼拝に連なる礼拝者である、
主の家族は死を越えてひとつ、そういう思いで、選んだ曲でした。

祈りにおいて関わってくださった皆さん、本当に有難うございました。

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by rev_ushioda | 2009-11-13 18:23 | Comments(0)