「何を削るか」

説教の合間に…^^:

何を削るかと言うことは、大事なことだ。車を走らせながらラジオを聴いていたら、チャップリンのことに詳しい人が、話していた。NGを研究しているのだそうだ。何がNGになったか。NGの中には、観ていて面白いものがある。たとえば、チャップリンが美しい女性に気を引かれて、体が異常に熱くなっていたと思ったら、実は、椅子のヒーターが壊れていたからだった。そういう、子どもに分からないような、いわゆるシモネタのようなものはカットしたところに、チャップリンのこだわりが見えてくる、そんな話だった。
最近では、塩狩峠の劇と照明との合わせを見ていて、面白いと思った。列車が峠を登るところで、照明は、雲が後ろに行くように演出した。私は、リアルな演出だと思って観ていたら、演出家のN氏は、「それはカット」と言った。「それでは童話になってしまう」と。なるほど、だからこそ、言葉が前面に出てくるのか。

何を削るか。説教の話である。

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by rev_ushioda | 2009-09-26 23:16 | Comments(0)

「横浜唯一の渓谷へ」

月~水曜日の理想的な連休だ。東海道へ、と思ったが、そこに行くまでの東名高速は大渋滞が予想されるため、断念。結婚式のあとの疲れが残っていたので、それはそれでよい決断だったのかも。
そこで、昨日は市川伝道所の候補地を見に行くことにした。現地を見、M先生御夫妻と食事を共にした。今は現地に行かなくても、インターネットで自在に歩き回ることができる。しかし、やはり現地の人にしてみれば、来て、見てほしいというのが心情であろう。
その後、木更津までドライブ、そこから、混むのを承知でアクアラインを初めて通ってみた。急ぐことのないドライブなので、渋滞も、余裕で通って来た。

今日は、突然思い立って、以前から気になっていた「横浜市内唯一の渓谷」というところに行ってみることにした。それも、午後3時頃に… というのも、目指す「陣が下渓谷」は、上星川と西谷の間、意外な近場にあるからだ。
陣が下渓谷は、帷子川の支流にあたる市沢川の渓谷である。私の家の近くに長屋門公園があって、やはり森の中に湧水があり小川が流れているが、また帷子川の源流の一つとされる泉の森があるが、さすがにそれとは比べ物にならない、確かに「渓谷」と言えるほどの場所であった。森に入るとひんやりする。清流が流れる川に出ると、さらに空気が違う。付近に住宅地が迫っているのに、町の喧騒は何も聞こえない。ただ、水の音だけだ。この渓谷を、しばらく川に沿って歩いたり、川のそばを通る歩道を散策できる。横浜に残された貴重な自然だと思った。
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渓谷を歩いていくと、やがて次の写真のように、ちょうどその渓谷の真上を環状2号が通っている。この工事に伴い、2004年、渓谷は「陣ヶ下渓谷公園」として整備されたそうである。面積15ha。環状2号が渓谷の上を通る部分は、桁下への採光性、既存樹木の保存など、自然と道路の共存が工夫されたそうで、何とかという賞を、とったそうである。渓谷はずいぶん変容しただろうに、そういうものかと思った。
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by rev_ushioda | 2009-09-22 21:29 | Comments(0)

「結婚式」

教会で、結婚式が行なわれた。
今まで外部の会場での結婚式はあったし、また、礼拝の中での結婚式はあったが、教会の礼拝堂では初めて、本格的な結婚式であった。
バージンロードが敷かれ、椅子にリボンがつけられ、花嫁となるY姉も本格的な花嫁衣裳。私自身、このような結婚式のイメージは今までしてこなかったが、本人たちがここでいいからと言うので、それならと準備してきた。ご親族には、教会に到着してからイメージが違っていたと言われないように、くれぐれも、普通の家だからとお伝えしておいてほしいと、数回、念を押した。しかし、そのような心配はなかったのかも知れない。良い結婚式になった。
2階の2部屋も親族の控え室とし、子どもたちの居場所を心配したが、子どもたちも全員がお花をまく、賛美する、といった大役を任されていたためか緊張気味で、いつものドタバタ?はなく、時間的にせわしくはあったが全体によく準備を進めることができた。茶話会の会場に模様替えしたときにはさすがに狭さを感じるが、それも親密さの証しとなったと思う。皆さん、よく協力してくれて、お疲れになったと思うが、結婚式のすばらしい裏方をつとめてくださった。心から感謝。
また、これをきかっかけに、台所の目隠しにと、今までのパーテーションに替わって天井から下げるロールスクリーンが設備され、二階のカーペットも新調され、障子が張り替えられた。K兄いわく、こんなきれいな教会、初めて見た、と。
何よりも、ここからスタートしたおふたりに、神の恵みと祝福が豊かにありますようにと、祈る。
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スライドショー
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開いた画面の右下にあるWIDEを押すと、画面が拡大します (…が、動きは遅くなります)。


実は、大失敗があったが、間一髪、機転を利かせた仲間によって助けられ、何事もなかったかのように乗り切った。… 何があったか。準備したプログラムの名前の一部(まさに誓約のところ)が、何と、、、、 思い出しても冷や汗が出るが、もし、そのまま式に入っていたとしたら、… ぞっとする。失敗はつきものとは言うが。
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by rev_ushioda | 2009-09-21 20:34 | Comments(2)

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by rev_ushioda | 2009-09-17 21:58 | Comments(0)

「中山道に思いが至る」

本屋で、「中山道を歩く旅」という本を見つけた。即、購入。
中を見ると ⇒ここで見れる わくわくしてくる。 東海道は2年半かかって、今、豊橋(旧吉田)を過ぎ、岡崎手前である。下の地図を参照。名古屋に至り、伊勢湾を渡れば、何とか先(京都)が見えてくる。こうなると、東海道の帰りは、絶対、中山道だと決めている。と言っても年3回ほどしか東海道には立てないから、再来年(2011年)の5月か8月には、京都に到着するだろうか。さらにその先となると、本当に先の長い話になる。
しかし、遠くを見るというのは、こうも楽しいものかと思う。心も、生活も、余りに身近な効果ばかり期待するから、こうして何年もかかって到達する目標を持つのはいいことだ。信仰こそ、天を目指す旅なのだから、私は、この道行きを、いつも天を目指す道行き、神の国に生きる者の道行きと重ねて考える。

今、いる場所は、「赤阪」。この先、「江戸」までの行程を思う描くと、わくわくするではないか! 天を目指す旅も、起こってくることはさまざまあるだろう。しかし、その都度、神の都に近づくわくわく感で満たされるのである。読者も共に、この道を辿らないか? 東海道… いや、天を目指すキリスト教の道を。

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by rev_ushioda | 2009-09-14 10:40 | Comments(0)

「9条の会」

「平和を実現する人々は、幸いである」というイエス・キリストの言葉に心が動く。

平和憲法を自分たちで守ろうという「九条の会」が、今や、全国的に、市民レベルで大きく動いている。そして、私たちの地域でも、立ち上げることになった。地域の方から声をかけていただいているので、私も、発起人に登録していく意志を表明している。

10月12日(月、祝日)午後1時30分、地元の公会堂で、9条の会連絡会「結成記念のつどい」が開催される。区内にあった小さな活動を、「連絡会」とう形で一つにしようという試みである。
そこで演じられるのが、講談「悲しみの母子像」。横浜市緑区での米軍機墜落事故で32年前、母子3人の命が奪われたが、それを講談化したものである。演じるのは、神田香織さん。主催 9条の会連絡会。
区外の皆さんも含め、多くの方の参加を期待したい。

以下、参考に…

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絵本 「終わりの無い物語」

あの沢田研二による 「我が窮状」 作詞:沢田 研二,作曲:大野 克夫
                 ↑ クリックで歌が聴けます
(この歌詞の「窮状」は、憲法第「九条」のこと。九条の改憲を危惧し、平和を訴える内容)

麗しの国 日本に生まれ 誇りも感じているが
忌まわしい時代に 遡るのは 賢明じゃない
英霊の涙に変えて授かった宝だ
この窮状 救うために 声なき声よ集え
我が窮状 守りきれたら 残す未来輝くよ

麗しの国 日本の核が 歯車を狂わせたんだ
老いたるは無力を気骨に変えて 礎石となろうぜ
諦めは取り返せない 過ちを招くだけ
この窮状 救いたいよ 声に集め歌おう
我が窮状 守れないなら 真の平和ありえない

この窮状 救えるのは静かに通る言葉
我が窮状 守りきりたい 許し合い 信じよう

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by rev_ushioda | 2009-09-12 08:26 | Comments(0)

こんな譬え話を聞いたことがあります。
「ある漁船が、月のない暗い夜に漁をしていて、方角を見失った。船乗り達はたいまつをかざして自分の位置を確かめようとしたがわからない。天候は悪く、岸へ戻れないのは命に関わるので、皆、必死で明かりをかざした。その時、一人の賢い船乗りが、たいまつを全て消せと言った。その言葉に従い明かりを消すと、真っ暗闇になったが、次第に目が慣れて、遠くの岸の、町の灯りが見えるようになった。そこで船は岸へ無事に戻ることができた。」
手元が明るすぎるため、本当の方角が見えなくなる、ということがあるのです。手元が明るいというのは、たとえば、分かっているという知識です。できるという自信です。持っているという満足です。不安からも、手元を明るくすることがある。そうすると、当面のことはできるのです。しかし、本当のことが見えなくなる。アメリカが軍事力をもって世界に出て行くとき、懸命に明かりをつけているのでしょうが、しかしそのことで本当の方角が見えなくなっているのです。かつて、日本もその過ちを犯しました。いえ、今なお、自分自身が、そうなのではないでしょうか。分かっているという時、そこに偽りがある。できるという時、そこに過信がある。明るいからこそ、方向を誤らせることがあるのです。
持っていると思うものを一度捨てる。それは不安なことであり、恐ろしいことです。無意味だと思う。だから手身近なところにある明かりで間に合わせようとしますから、そのために私たちは残念な事を数多くしてきたのです。人を傷つけ、悲しませてきたのです。そして、そのことに気づいていない。だから、そのことを今も、繰り返しているのではありませんか。一旦、明かりを消すことから、見えてくるものがあります。
イエス・キリストの言葉「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」ヨハネ9:41

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by rev_ushioda | 2009-09-10 22:01 | Comments(0)

9月に入った、さあ、「区民クリスマス」の準備だ。ビッグイベント「塩狩峠」が終わったと言って、ほっとしてもいられない。
私は今年も広報担当で、仕事はニュースレター発行である。区民クリスマスがマンネリ化しないよう、また伝道に焦点を絞れるようにというのが、私の編集方針だ。聖歌隊員の募集が、毎年、苦労するところである。そこで、9月号は聖歌隊に焦点を当て、指揮者にインタビューとなった(写真)。区民クリスマス発起人でもあるN兄を文化の森に訪ねて、いろいろお話をうかがった。下記にその一部。区民クリスマスが、ぜひ、多くの人にとって教会への足がかりになるようにと、祈りの焦点は、そこにある。次の「決戦」に向けての準備がスタートした。

A   Nさんは、区民クリスマスの呼び掛け人の名刺を作って、教会を回って、
    呼び掛けてくださいましたね。動機について、お話しください。
N   定年後の生活を考えたときに、地元をないがしろにしていて良いのかと
    考えました。泉区は、藤沢よりもキリスト教の浸透度が低い。
    教会が地元にメッセージを発信するためには、
    自分には何ができるだろうかと。
    私の余力がある限り、応援してみようという気持ちになったのです。
A   区民クリスマスが、教会が地域に出て行く足がかりになれば、
    ということでしょうか。
N   そうです。そういう中から、ひとりでも教会員が増えたらいいなと。
    先日も、最初の頃の聖歌隊のメンバーのひとりが
    「先生、洗礼を受けました」と。嬉しかったですよ。
    そういうわけですから、区民クリスマスでは、教会が一緒になって、
    区民のためにPRすることが大事だと思います。
A   ほとんどの教会が、Nさんの呼び掛けに応えてくれましたね。
N   最初のうちは、ちょっと独裁的かなと… 
    でも、誰かが動かないといけないと思いましたから、やってきたと思います。
A   やってみて、よかったなと思うことは?
N   教会間の交流が生まれたことは、大きな財産になるのではないでしょうか。
A   確かに、区民クリスマスがなかったら、教会間の交流は無かったかも
    知れませんね。最近は、牧師の代わりに役員さんが出てきて、
    それはそれでいいですね。ところで、聖歌隊ですが…
N   聖歌隊は、易しくしたらよいのか、レベルを上げたら良いのか、
    そのあたりが難しいのです。易しくしていると思っても、
    厳しいと感じる人もいる。いずれにしても、「奉仕」の精神が大事だと
    思うのです。自己満足すればよいのではなく、「奉仕」とは何か、
    ということを問わなければいけないと思います。
A   区民クリスマスで、聖歌隊は、やはり大事な部分でしょうか?
N   なくてならないものですが、やはり大事なのは、礼拝ですよ。
    メッセージなり、ページェントです。
    区民クリスマスは、それで、もっているのです。
A   区民クリスマスのメッセージ性が大事ということですね。
N   その通りです。聖歌隊は、刺し身のツマのようなもので…(笑) 
    私が当初から願っていることは、本当のクリスマスとはどういうものか、
    一般の人たちに知らせることです。
A   そうなると、広告媒体が大事になりますね。教会に来ている人だけに
    案内するのではなく。一般の広報誌などを積極的に使わないと
    いけないですね。
N   相鉄にも、ぜひ、バックアップして欲しい。難しいのですが。
A   聖歌隊で歌う曲について、どう考えていますか?
N   安易さに流れてはいけないと思って、ちゃんとした曲を選んできました。
    これからは易しい歌も、いいのではないかと思っています。
    と言っても、ちゃんとした合唱曲で、美しくて、心に響く。
    しかし音符が難しくないような曲ですね。
A   最初の頃は、難しかったけれど、変えて来た、ということですか。
N   そうです。練習の形態が変わったことが、ひとつの理由です。
    それぞれの教会で準備ができる曲ですね。
    負担にならず、楽しく修得できる曲を心がけています。
    そうすることで、多くの人に参加してほしいのです。
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by rev_ushioda | 2009-09-03 19:15 | Comments(0)

「死を覚えよ」

夏の道を歩いていると、しばしば、セミが死んでいるのに出会いました。ほんのわずかの命を生き、死んでいく。その死骸を見て、私たちは何も思わずに見過ごすことはできません。
かつて「大地は死骸で満ちている」という一文を読んだことがあります。植物の枯死したものから始まって、虫の死骸、動物の死骸、私たちはそういう死骸の上に乗って生きているのだというそのエッセイに、なるほどと納得するものがありました。私たちの生は、死の上に成り立っている。この指摘は、実際その通りであり、私たちの生き方を大いに考えさせる事実だと思うのですが、いかがでしょうか。
聖書の「箴言」という個所(教訓、戒めというような意味ですが)そこに、次のような祈りの言葉があります。「人生の年月は70年程のものです。健やかな人が80年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。…生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」
生涯の日を正しく数える。これは、夏の道で足元に死んでいるセミを見て知恵を得よ、と言うのに等しいと思います。こうして、このことを心に留めた人々、昔の修道院では、「メメント・モリ」(死を覚えよ)というのが挨拶の言葉になったと聞きます。私たちは、死ぬべき自分を忘れるのです。誰も必ず死んでいくのにもかかわらず、何の備えもしないのです。それでは、生涯の日を正しく数えることができない。だから「メメント・モリ」(死を覚えよ)。
聖書はしかし、死を越えた、死とは正反対の「復活」を描き出しています。復活の意味がわからないなら「神にある命」と言い替えてもいいのです。神の命の上に、私たちの人生を乗せるのです。死の上に乗せるのではありません。このまったく別の生涯の日の数え方があるということを、セミの死骸を見たらぜひ思い出し、心に留めていただきたいのです。

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by rev_ushioda | 2009-09-02 09:25 | Comments(0)

「余禄」

塩狩峠の公演実現には、当然、経済が必要であったが、当初の手持ち資金は、なかった。ホールの費用を見たら、せいぜい7万円あればと周囲を説得した。
ところが、その数字は、数年前の改定以前の費用で、実際はぐーんと跳ね上がっていた。そして、その他の諸費用を加えていくと20万、30万、40万と次第に上がっていった。1週間前に50万円になった。
その都度、費用の必要を伝えてくる劇団の方は、ほんとうに申し訳ないと言われるが、ゼロから始めたこと、必要なら主が与えてくださると、答え続けてきた。準備期間中に献金や協賛金はあったが、最終的には当日の席上献金(カンパ)で決まる。20万円集まればと準備してきたが、1週間前に上の理由で、それが30万円になった。30万円もの金額を、当日献金で集めるのである! はたして…
当日の席上献金で集まった金額は、35万円であった! 280人の皆さんが応えてくださった。これによって総予算50万円は満たされ、すべての必要はぴったり与えられたばかりか、削ってきた出費も、復活させることができた。
不足なく、余るでもなく、主のわざにつくときに、主が必要に対して手を伸べてくださるという、明確な証拠であった。

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by rev_ushioda | 2009-09-01 20:33 | Comments(0)