「人間の尊厳」

「アンクル・トムの小屋」という、ストウ夫人の名作があります。この小説の主人公は、黒人奴隷、トムです。あるとき、トムは、綿摘みの過酷なノルマが果たせず、疲れきった女を助けて、代わって綿を摘むのです。しかし、そのことで主人レグリーの怒りを買って、冷血漢の主人は、トムに激しい拷問を加えます。レグリーはトムを鞭で打ちながら、こう言うのです。「俺はお前を買った。お前の体も魂も俺のものだ」。すると、即座にトムが返した言葉は、こうでした。「違います。私の魂は旦那のものではありません。旦那は体は買っても、魂は買うことができない。私の魂は、守ってくださることができるただ一人の方にすでに買われて、支払も済んでいます」。
こうして、レグリーは鞭でトムの体を傷つけても、魂までも屈服させることはできなかったのです。ここがキリスト教信仰の要、大事なところなのです。トムの中には「自分はもうイエス・キリストに買われている。自分はその方のものだ」という強い思いがあって、これが現実の拷問、苦しみに打ち勝つ力となり、トムの人間としての尊厳性を守り抜いた、ということになったのです。キリストに買われているというのは、言い替えると、キリストはこの自分のために十字架に死んでくださった。十字架という値を支払って、私を罪の支配から解放してくださった、ということなのです。
人生の荒野・荒波の中で、何が私たちの盾となり、砦となり、私たちを投げやりの人生とならせず、私たちに人格の尊厳性を守らせるかと言うと、私たちはキリストに買われていることだと、あの小説は語っていたのです。私たちはキリストのものだから何者も私の魂を奪うことはできないのです。言い方を変えると、キリストに無条件に愛されている、ということ。私たちは一人も洩れなく、キリストの代価によって買い取られ、罪の支配から解放され、今や、神の宝とされているということです。これが人生の荒野・荒波の中で、私たち人間の尊厳を守るのです。

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by rev_ushioda | 2009-03-31 09:22 | Comments(0)

泉教会では、カンバーランド長老教会「神の民の礼拝」編の「主の祈り」を、4月から使用することにした。
そのきっかけになったのは、従来の主の祈りに含まれる「なんじ」という言葉だった。「なんじ(汝/爾)」は、目下(めした)の者への呼びかけであって、神への呼びかけには不適切な言葉である。讃美歌21 93-5では、ひらがなになっているが、「汝」「爾」どちらにしても、「同等以下の相手を指す語で、「お前」なのだ。神に対して「お前」とは…。
これをキリスト教会で長く使ってきたのには、たとえば「汝」が「雅的表現」(『新明解国語辞典』三省堂)であるため、聖書の格調を重んじた結果であると推論できる。 明治時代に「あなた」を用いた訳もあった。しかし、聖書が一般民衆にひろく読まれるためには仮名書きにすべきこと等を主張した委員は、結局、翻訳委員会から離脱している。委員会は「汝」についての前述のような意味を知りながらも、聖書の格調を重んじたため、「雅的表現」である「汝」を用いたものと推論できる。
日本社会でキリスト者の人口がいまだ1パーセントに満たない理由についていろいろ言われているが、その一つに、このような格調を重んじる傾向が、ネックになっているのかも知れない。一般的日本人の言葉、庶民的な言葉になりきらない言葉を平気で使っていたりするようでは、壁を越えることはできないであろう。

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by rev_ushioda | 2009-03-24 00:05 | Comments(0)

「音が消えた話」

私たちの教会では今年、近くのホールで朗読劇を上演します。同じホールで、以前、一人芝居「マリー・マグダレーン」を上演しましたが、その数日前のことでした。横浜著作権協会というところから、この劇で、音楽は使いますか、という電話が入ったのです。私はこの劇はすでに一年前に観ていたので内容は知っていましたから、即座に「使いません」と答えました。そのあと、一応、確認したほうがよいと思って、出演者に電話してみました。すると、「使います」という答え。実際、上演されたその場にいると、ホールは大きなBGM、あるいは効果音で響き渡っていたのです。私の記憶の中から、そのすべての音が消えてしまっていたのです。
なぜなのかを考えてみると、それほどに、劇の内容に引き込まれてしまったのだと思うのです。そう言えば、この劇の印象を何人かの人に聞いてみたのですが、何かをすると、通常、良かったと言うのを聞きます。確かにそのように言う人もいて、本当に良かったという印象を語ってくれたのですが、今回は、「衝撃的だった」という声を多く聞きました。何かの企画で、衝撃的という感想は、あまり聞かないものです。なるほど、そのような強烈な印象があったために、音が、私の記憶から消えてしまったのだろうと思います。
聖書に次のようなことばがあります。「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す・・その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう」。天が物語る言葉、神のメッセージは全地に響き、世界の果てに向かっているのに、なぜ、私たちはそれを聞くことができないのか。神などいないとか、関係ないと、なぜ言えるのか。それは、神に問題があるのではなく、それが聞けなくなっている私たちに何か問題がある気がします。キリストと出会った女性を演じる一人芝居に惹かれて効果音が聞こえないのは、これは問題ないでしょう。しかし、神の言葉が聞こえないほど、自分の事柄やこの世の事柄に惹かれてしまうことがあるのです。皆さんはいかがでしょうか。この世の事柄から自由になって、ぜひ、全地に響いている神の言葉を聞いていただきたいのです。
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by rev_ushioda | 2009-03-23 13:14 | Comments(0)

「なごり雪」

今日の朝日新聞「be」に、「うたの旅人 実は旅立ちの歌だった 伊勢正三 なごり雪」とあったので、すぐ切り取った。
長女が二十歳になった時、イルカが歌う大好きなこの歌を、テープに録音して、贈った。精一杯のお祝いの気持ちだった。父親の気持ちというのは、複雑なものだ。次女が二十歳を前にして、「二十歳になったら教会に行かない」と言い出して、ショックのあまり、長女と同じようにプレゼントする機会を逸してしまった。数年を経て、今は、だいぶそのショックから立ち直れてきている。いつか、教会に戻るその時が来るのだろうと、やっと、思えるようになったから。人は、そのような時もある、親に反抗できるだけいいのだとも言ってくれたが、それで気持ちに落ちることは決してなかった。しかし、はたして自分も、人にはそう言って来た。私から言われた彼/彼女も、その時、気持ちに落ちていなかっただろう。
次女には、改めてこの歌を贈る日が来るだろうと思っている。どうしても、二人の娘に、この歌を贈りたい、父親の心境である。ショックから3年^ ^ やっと、そんなふうに思えるようになってきた時の、今朝の新聞記事だった。

  「なごり雪」  イルカ英語版

  汽車を待つ君の横で
  ぼくは時計を気にしてる
  季節外れの雪が降ってる
  「東京で見る雪はこれが最後ね」と
  さみしそうに 君がつぶやく
  なごり雪も 降る時を知り
  ふざけ過ぎた 季節のあとで
  今 春が来て 君はきれいになった
  去年よりずっと きれいになった

  動き始めた汽車の窓に 顔をつけて
  君は何か 言おうとしている
  君のくちびるが「さようなら」と動くことが
  こわくて 下を向いてた
  時が行けば 幼い君も
  大人になると 気付かないまま
  今 春が来て 君はきれいになった
  去年よりずっと きれいになった

  君が去った ホームに残り
  落ちてはとける 雪を見ていた
  今 春が来て 君はきれいになった
  去年よりずっと きれいになった

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by rev_ushioda | 2009-03-21 12:56 | Comments(0)

「  &BBQ」

「  アンド バーベキュー」 教会の将来(&の前の空白部分)を考える日として、準備してきた。今週は、ずっと良いお天気が続いてきたのに、ところが今日に限って、しかも公園に集合、バーベキューを楽しむことになっていた午前中に限って、天気予報は前線通過ということで、雨が確実だった。
仕方がないので午前と午後のプログラムを入れ替えて実施することにした。午前中、借りていたYMCAの室内での作業をした。外はかなりの雨。しかし、この変更は大当たりで、12時になったら激しかった雨が、うそのような晴天となった。^ ^

写真は、午前中のKJ法を用いた作業の様子。・・・午前と午後を入れ替えたため、午後には十分とっていた時間が足らないことになり、続きは・・・夏のキャンプの時となった。
2枚目の写真は、大池公園でのBBQ後 (あれ? 二人いないことに今、気づいた・・・)。雨が降らなければ超混雑のはずだったこの広場も、キャンセルがあったために人出が少なく、ゆっくり過ごすことができた。桜はまだだったが、桜の木々をわたる空気の気持ちよかったこと!青空の下、桜のつぼみは大きくふくらんでいた。
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by rev_ushioda | 2009-03-20 17:37 | Comments(0)

「欠席連絡」

たんぽぽの
咲く丘の見ゆ
一里塚

旧東海道を歩くと、一里塚がある。そこは、旅人にとって目標への距離を測るバロメーターであるし、同時に休憩、休養の場所でもあった。心に遠く目標を見つめつつ、疲れやすい体は、休めなければならない。目標遠く、思うようにいかない旅路を受け止めなければならないことも、あったのではないか。
今日、有志の牧師たちの勉強会があった。「たんぽぽ会」と名づけられている。休んでいるばかりいる私なのに、あきらめず毎回、声をかけてくれる貴重な研修の場なので、できるだけ行きたいと思っているが、今日は、何か体が動かず、欠席した(このところずっと休んでいたので、今日も、と言ったほうが正確である)。きっと、たくさんの話に花が咲いているだろう。そう思って送った、欠席メールである。

たんぽぽの/咲く丘の見ゆ/一里塚
(たんぽぽ会では、話が盛り上がっている様子が、手に取るようにわかる。今日は疲れて休んでいるが、ちゃんと仲間には加わっていますからね。いつか、そこにきっと行けるでしょう。)

後日談。あとから聞いた話だと、敬愛する仲間たちは、潮田は今日、たんぽぽの咲いている所に行っているのだと思った由。 ;´д`)  あわてて、釈義をつけることにした。

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by rev_ushioda | 2009-03-16 23:22 | Comments(0)

「第3の選択」

男の子は、誰も皆、サッカーに憧れ、そしてワールドカップとなれば、世界中、ものすごい盛り上がり様です。
Jリーガーに松波正信という人がいます。彼には3つの大きな選択の時がありました。1度目は、高校進学の時。彼は、幼い日から国立競技場でサッカーする夢を持っていました。高校進学の時、思い切って地方から東京に出る選択をしました。その甲斐あってか高校在学中、あこがれの国立競技場で全国優勝を果たすことができました。2度目の選択は、プロになる時。大学に進むべきか悩んだ末、自分の力を信じてプロの世界に飛び込んだのです。しかし、2年目に腰を痛め、体が思うように動かない。試合に出てもすぐに怪我をする。自分の力を信じてきた彼でしたが、ここに来て自信を失いました。
さて、3度目の選択は、教会に行くという選択でした。その頃出会った、今のおつれあいからデートによく誘われた場所が、何と教会だった。戸惑いましたが、断れば嫌われるのではないかと思って、気は進まないまま教会に行ったそうです。それまで教会のイメージといえば、何か暗い感じで、難しい話を聞かされるところ、といった感じだったのですが、行ってみればイメージとは全然違い、教会ではリズミカルな賛美歌が歌われ、活気に満ちた雰囲気だった。そればかりか、初めての彼のためにお祈りしてくれた。偏見は、すぐ、なくなりました。
その後、気が付くと、神という存在に信頼してボールを蹴っている自分に松波さんは気づくのです。今までは自分を信じていましたから、オレはすごいと自信過剰にもなれば、逆に怪我をすればまったく自信を失ってしまう。しかし今は、神は自分にとっていつもベストな方法を備えてくださる、と確信に生きているのです。依然としてスランプにもなれば怪我をする時もありますが、キリスト者の彼は、今は自分をいつもイエスという神に向き合わせて、最善を生きているのです。あなたも、神を神とした生き方を選択する時、人生のフェアプレーと言ったらよいでしょうか、最善を尽くして生きることができます。

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by rev_ushioda | 2009-03-15 20:04 | Comments(0)

「箱根にいい宿あり」

箱根の塔ノ沢温泉に、良い宿(ホテル)がある。良い、という意味は、まず、安いということだ。1泊2食、しかも夕食は本格フランス料理で5,775円! かつ、部屋は広いし、少し古くはあっても清潔で、窓は早川に面して大開口となっていて景色は抜群というキャトルセゾンだ。
ただし、渓谷にあるホテルなのでエントランスやロビーは非常に狭いし、大浴場と言っても小さめなので、そういうところに空間とくつろぎ感を期待する人には、紹介できない。
でも、近くの姉妹館、江戸時代から続く老舗旅館である「一の湯本館」の温泉が使えるのが、いい。とにかくお勧めは、フランス料理、部屋の広さと部屋からの景色、そして極めつけの低料金だ。 → 料金は、残念ながら4月から8,400円に改定だそうだ (>_<;
日曜日、その日の全てのことが終わってから、5時に出発しても6時には箱根に着く。そして温泉に入って、フランス料理を楽しむ。夫婦二人でひとつのグラスワインが、料理にちょうどよく合う。早川の流れの音が心を癒す。
翌日は、箱根の風情溢れる無人駅(駅には階段と山道でしか行くことができない) 塔ノ沢駅 までの山道を散策、そのまま登山鉄道で湯元に行き (動画では、湯元から塔ノ沢に向かっている)、湯元辺りをぶらぶらしながらおそばを食べ、歩いて塔ノ沢に戻っても15分くらいか。そして、午後1時には自宅に戻っている。(または、塔ノ沢でベゴニア園、ひめしゃらの湯を楽しむのもいいし、宮ノ下まで行って富士屋ホテルの、あのカレーを食べてもいい)。
これが、私たちの、ちょっとした休養の仕方である。月1回は行こうと決めたまま、数年行かれずじまいだった箱根は、今年、今のところ順調である。年齢だろうか、以前は気にも留めなかった休養が(そうして妻に迷惑をかけてきた)、今はとても大事になってきた。
写真は、手前のトンネルと、向こうの山に入って行くトンネルに挟まれ、山の中にホームだけ出現する「塔ノ沢駅」。
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by rev_ushioda | 2009-03-09 16:53 | Comments(2)

「世界祈祷日」

「世界祈祷日」の礼拝が、私たちの教会で行われた。「世界祈祷日」は、世界170の国において、同じテーマで祈るいのりのプログラム。1887年、アメリカ合衆国の長老派教会の女性たちが、移民者や、いろいろな形で抑圧されている人々をおぼえて祈祷日を持ち、これが起源となっている。1945年以後、教派を越えて広がり、日本ではNCC女性委員会が中心に進めており、カンバーランド長老教会では、女性会が推進している。世界中、どこでも毎年3月の第1金曜日に実施されている。一つの祈りを世界中の教会で祈る。何とダイナミックな運動だろう。
今日は、あいにくの雨であったが、渋沢、さがみ野、あさひ、そして泉教会の、4教会が集まった。ほかに、地域のカトリック教会の2名、婦人矯風会の会長さんが加わり32名であった。今回のテーマは、「私たちは多くいても、キリストにおいてひとつの体です パプアニューギニアからのメッセージ」。説教は、私であった。以下、要約。

今日の聖書の言葉に、「持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」とあります。自分のものだと、「言う」者がなかったのです。持ち物は、ある。皆、別々の財産を持っていたのです。しかし、この持ち物を「自分のものだと言う者が」なかったのです。
では、誰のものと言っていたのか。直前の記事を読んで行くと、すべてのものは神のものであり、神から預かっている、そのような考えを持っていたことが分かります。自分のものだから、自分の使いたいように使い切ってしまったのではないのです。自分のものを持ち、しかもその持物を自分のためだけに使い、自分の考えで何でも判断し、自分勝手に使うというようなことが一般にあったと思うのですが、それを私物化と言うならば、教会は、それとは反対の所有のしかたをした、と言うのです。
三浦綾子さんのお話の中で、自分の家の上棟式の話が出てきます。その時、秘書がこう祈った。「どうか、この家を私物化することがありませんように」。本来、住宅というものは私生活の場である。その家を私物化するのが当たり前。しかし、それをしないようにと言うのは、本当にそうだという意味で、すごい祈りだと、本に書いているのです。教会は、所有を私物化しない生き方に生かされている共同体なのです。
ところで、聖書には「主イエスの復活を証し」と書かれています。自分の所有を仲間のために分かち合うという行動は、やがて主イエスが今、ここに、確かに生きておられる、という証しにつながった、というように読みとれます。宣教の言葉だけでなく、教会は具体的な生活をもって主イエスの復活を証ししたのです。それは、逆の意味では、主イエスの復活を証する教会共同体は、ひとりひとりの多様な所有を、他者のために役立てるための十分な動機を持っていた、持っている、ということになります。
私たちには多様性があります。おのおのの、所有物を持っている。それがお互いとの間を切り刻み、細切れにしているのが現代社会です。細切れにされたお互いは、お互いに価値観を競い、どちらが相手に対して優位であるかと争っている。こうして、人間の多様性は、少しも一致を見出し得なくなっています。
しかし、主イエス・キリストにあっては、その多様性は、お互いを引き離すものにならず、互いを分断せず、却ってその違いが良い影響を及ぼして、ひとつの体、共同体を作ることができるのです。「私たちは多くいても、キリストにおいてひとつの体です」。主イエスの復活を証しする時、教会こそが、お互いの違いを認めることができ、教会こそがその違いをひとつにすることができるに違いありません。
「私たちは多くいても、キリストにおいてひとつの体です パプアニューギニアからのメッセージ」は、私たちをもう一度、主イエスの復活を証する共同体に、引き戻すメッセージであるに違いありません。そして、主イエスの復活を証する共同体として、今度は、この世の中の多様なあり方をつなぐ役割を担うのです。そういうものとして、復活の主イエスによって、今日、この場所から遣わされる私たちでありたいと願います。

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by rev_ushioda | 2009-03-07 00:01 | Comments(0)

「来て、見なさい」

教会の部屋にいると、道を歩く人の色々な話し声が聞こえてきます。「あ、ここ、教会なんだ」子どもが言うのを聞いて、聞き耳を立てると、一緒にいた友だちが「そうだよ。泉教会って言うんだ」来たことのない子どもがちゃんと教えているのです。うれしいな、と思います。ある時は「お母さん、教会って何するところ?」と言っています。(へー、何と答えるのかな?)「お祈りするところだよ」。このお母さん、お祈りに来てくれたらいいなあと思いました。またある時は、こんな遣り取りがありました。「お母さん、お葬式があったの?」なぜ、そんなことを言ったのかなと、しばらく考えてしまいました。ひょっとしたら、十字架を見てお葬式を連想したのかな、と思いました。人は、教会の前を通りながら、いろいろ考えるのですね。
でも、考えたり想像したりはするのですが、中に入る人は、少ないのです。百聞は一見に如かず。どうか、教会を訪ねてほしいと思います。ある時、地域の小学校で、子どもたちが放課後、何をしているか調査したらしいのですが、「教会で遊ぶ」と答えた子どもがいたそうです。当時、教会に、よく子どもが遊びに来ていました。その子たちが、教会で遊ぶと書いたのでしょう。それで、教会って何をするところだろう。どういう遊びをしているのだろう。こうして、学校からお話を聞かせてくださいということで、お訪ねくださいました。小学校からも、中学校からも、ケースは違いますが、いずれにしても学校関係者が、そのようにして、お話を聞きに来てくださるのです。
聖書に、「来て、見なさい」とキリストに会ってみることを勧める言葉があります。想像しているだけでは思い違いが起こります。何々してはいけないという規律が厳しいところだろうとか、何々すべきだと律法的なところだろうとか、教会に対する誤解もあります。そうだったら、子どもは来ない。「来て、見なさい」。きっと新しい発見が、あるはずです。私自身も、駅前で配られたチラシ1枚を手に持って、「来て、見なさい」というのだったらと、見に行った人間です。あなたも、どうぞ。泉教会は、相鉄・いずみ中央、市営地下鉄・立場駅から、どちらも13分です。

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by rev_ushioda | 2009-03-06 00:29 | Comments(0)