「祝福とは」

大きなことを成しとげるため 力を与えてほしいと神に求めたのに
謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった

より偉大なことができるようにと 健康を求めたのに
より良きことができるようにと 病弱を与えられた

幸せになろうとして 富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして 成功を求めたのに
得意にならないようにと 失敗を授かった

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと 生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた

神の意にそわぬものであるにもかかわらず
心の中の言い表せないものはすべて叶えられた

私はあらゆる人の中で
もっとも豊かに祝福されたのだ


CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED

I asked God for strength, that I might achieve
I was made weak, that I might learn humbly to obey...
I asked for health, that I might do greater things
I was given infirmity, that I might do better things...
I asked for riches, that I might be happy
I was given poverty, that I might be wise...
I asked for power, that I might have the praise of men
I was given weakness, that I might feel the need of God...
I asked for all things, that I might enjoy life
I was given life, that I might enjoy all things...
I got nothing that I asked for-but everything
I had hoped for Almost despite myself,my unspoken prayers were answered.
I am among all men, most richly blessed!

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by rev_ushioda | 2008-12-30 21:44 | Comments(2)

「SDG」

10月から続けてきた主の祈りによる説教は、昨日が最後であった。以下、説教の最後の言葉である。

教会音楽で有名なバッハは、彼が作曲した楽譜の最後に必ず"SDG"と記したそうです。 "SDG"とは、ラテン語で、"Soli Deo gloria" (ソリ・デオ・グロリア、ただ神に栄光があるように)というラテン語の頭文字です。「ただ神に栄光があるように」なぜなら、国と力と栄えとは限りなく神さま、あなたのもの、だからです。
今年も、また、社会的にいろいろな事件がありました。教会生活にも大きないくつかのことを数えることができます。私たちの個人的な生活にも、それぞれ大きな変化がありました。
しかしそれがどうであろうとも、私たちは今年最後の日にSDGを付けて、この年を送ることをしたいのです。そして、やがて来る人生最後の日にも、確かにSDGを付けて人生を閉じていきたいものです。

「国も力も栄光も 永遠に主よ、永遠に主よ、あなたのものです」(『神の民の礼拝』より)。
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by rev_ushioda | 2008-12-29 15:40 | Comments(0)

説教の準備をしていて、主の祈りの「なんじ」について疑問が出てきた。
調べてみると、以下の説明である。
「古くは『なむち』で、『な』は代名詞、『むち』は尊い者の意を表す語。『なんぢ』と表記されることが多い。本来は語の構成が示すように,尊敬の意を含む語。中世になると敬意を失って、同等または目下の者に対する代名詞となり、中世以降はもっぱら目下の者に対する代名詞となった。」(学研『古語辞典』)。
その他の参考。「汝」を古語の「いまし」「みまし」と発音するなら、「相手を尊敬して呼ぶ言葉」となる(『広辞苑』第5版)。
いずれにしても、明治時代、その意味が変ったにもかかわらず、聖書翻訳にあたって「汝」を用いたのは、聖書の格調を重んじた結果であるかも知れない。たとえばバプテスト派の宣教師ネーサン・ブラウンは、「新約聖書を日本人に広く普及させる」意図で主の祈りを訳した。その最終行は以下の通り。 「政事と ちからと さかへハ あなたの かぎりなき 世に たもち たまふ ものなり あめん」(『聖書之抄書』) 。彼は聖書翻訳委員会のメンバーになったが「聖書が一般民衆にひろく読まれるためには、文字は仮名書きにすべき」こと等を主張して他の委員と対立、離脱した。
こうした経緯から、委員会は、「なんじ」に問題があると知りつつも、聖書の格調を重んじたために「汝」を用いたものと推論できる。『讃美歌21』ではひらがな書きにしているが、意味は同じであろう。
結論として、文語訳で祈る「なんじ」は、訳語として適当ではないと思う。いよいよカンバーランド長老教会『神の民の礼拝』に収録されている「主の祈り」に移行を考える時が来た。
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by rev_ushioda | 2008-12-28 11:02 | Comments(0)

「声が出ない・・・」

夕べの燭火礼拝が終り、しばらくして、声がかすれ始め、1時間もしたら、すっかり声が出なくなってしまった。そして、今日になっても、いよいよひどく、何も話すことができない。咳もでていたから風邪だったのか・・・ 
いやいや、そんなこと言っていられない。今日は、木曜日。次の礼拝までに治さなければ。そして、来週木曜日の元旦礼拝、1月4日の主日礼拝と続く。とにかく、年末年始、気が抜けないのだ。声が出て欲しい。このままでは、それこそ「話にならない」。
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by rev_ushioda | 2008-12-25 17:39 | Comments(4)

「クリスマス説教」


イエスの両親であるヨセフと、イエスを身ごもって身重であったマリアの二人は、住民登録をするためにナザレからベツレヘムに旅します。120キロです。ローマ皇帝の勅令によって、身重であっても、そうしなければならなかった。支配者の勅令とは、いつの時代も権力を維持するためだけで、弱い人の立場を考えない、逆に苦しみを与える、そういうものです。(ルカ2:1-4)。
その行く道をたどると、そのひとつは、パレスチナ北方に位置するナザレから、ガリラヤ湖に出て、ヨルダン川沿いに南に進みエリコに行き、そこからエルサレムないしはベツレヘムへの道。120キロというと、直線で、ここから静岡手前辺りです。東名高速を使った道のり計算では、富士辺りになります。
しかも、ナザレは海抜約350メ-トル前後、エリコは海抜下250メ-トル前後、一番低い場所になり、ベツレヘムは海抜約800メ-トルです。
つまり、ナザレからエリコまで約600メ-トル下って、エリコから1000メ-トル登ることになります。
或いは他の道を通って行くにしても、いずれにしても山道を登り下りしなければならず、随分と大変な道のりだったはず。そして、その旅の先、ベツレヘムで、神の子イエスキリストが生まれるのです。

この時代は、どういう時代であったか。「ルカによる福音書」は、住民登録の勅令を出した、ローマ帝国の時代であるといっていますが、「マタイによる福音書」を読むと、「ヘロデ王の時代」と言っている。ヘロデは、自らを「ヘロデ大王」と呼んでいたのですが、「アレキサンダー大王」のような偉大な王もいましたが、それとは天と地ほどかけはなれていました。
厳密に言えば、彼は王ではなく、ローマ帝国から支配を任された領主といった方が適切であるかも知れない。とは言うものの33年という治世は、その地の歴史の中では例外的に長いものであり、ユダヤ地方に秩序と安定を保った功績は小さくありません。最大の功績はエルサレム神殿の再建であり、現在でもその壁の一部が残されています。死海のほとりにあるマサダに建てた要塞は、ヘロデの権力を偲ばせるものとして有名です。
しかし、そのような繁栄と功績こそありましたが、その背後には、恐ろしい物語が隠されていました。王になったのは実力というよりローマ帝国に対するへつらいや駆け引きの結果でありましたから、当然、自分の地位を狙う者を、いつも警戒していなければなりませんでした。
ヘロデは、裏切りと陰謀には非常に過敏になり、密告などの結果、疑いをかけられた者の結末は悲惨です。処刑された者のリストには、最高法院の指導的なメンバーたちもいますが、妻マリアムネの弟、妻の母、3人の子どもたちの名前もあります。何とも恐ろしいことです。
そんなヘロデが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」という東方から来た旅人からの質問に、「不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」と聖書が書くのは、当然のことです。
その東方から来た旅人に、王は平静を装い、エルサレムに居た学者たちに聞いた答えを聞かせた。新しい王の誕生はベツレヘムである、と彼らに伝えました。王は彼らをひそかに呼びよせ「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」と言ったがヘロデの心には、まったく違う計画が潜んでいました。ヘロデは、自己保身というゆがんだ思いをもって、その直後、ベツレヘム中の幼子を虐殺してしまいます。主の一家は、かろうじてエジプトに逃れ、難民になりました。
これが、クリスマスの背景です。決して、きらきらした飾り付けで彩られている今日の商業化されたクリスマスのようではありません。それは恐怖、不安、悲しみ、そしてあきらめといった、暗黒と言ってよいでしょう。
毎年、アドベントに3回、クリスマスに1回、いずみ保育園で、クリスマスメッセージをします。このヘロデの話をしようとしたときに、主任が、その話はやめて欲しいと言われた。難民の子どもが多い、特殊な保育園です。もう30年も前になる1975年のベトナム戦争終結に前後して、ベトナム・ラオス・カンボジアから脱出した人々の家族が多いのです。殺戮、別離のために、悲しみ、痛みを背負い、いまだ記憶から消えない親がいる、というのです。聖書の話と自分と重なってしまう人々が、現に、ここにいる。現代も、聖書が描き出す、そういう時代だということです。

しかし、ここが大事ですが、クリスマスの本当の意味は、まさにその恐怖、悲しみ、不安と痛み、そこから始まるのです。
イエス・キリストが生まれたベツレヘム(ベ-ト・レヘム)という言葉の意味は、何か。ヘブライ語で「家」を意味する「バイト」と、「パン」を意味する「レヘム」が合わさった言葉で、「パンの家」となります。
主は、自らヘロデによる殺害を逃れ、その地上での歩みのすべてをかけて神の国を宣べ伝えられました。ヨハネ6:48~58に、たとえばこのような言葉があります。「私は命のパンである。・・・これを食べるものは死なない。私は、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」。
「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」イエス・キリストを食べると言うのは、命のパンであり、天から降ってきた生きたパンであるイエス・キリストを、信じ、心に迎え入れる、ということを意味します。イエス・キリストというレヘム(パン)を宿すバイト(家)・・・それは、私たち自身だということなのです。
もし、私たちがイエス・キリストを迎えることを自分に赦すなら、イエス・キリストは、ただちに私のパンになると言うのです。
この命のパンであるイエス・キリストがご降誕なさった所は、石灰岩をくりぬいて作られた、洞窟状の馬小屋だといわれます。その飼い葉おけに寝かされたのです。そこは洞窟が掘られるような傾斜しているところですので、馬小屋の上には、家があります。
家。人間の営み。端的に言えば、この世の世界、ヘロデの世界があった、その下に、イエス・キリストが、ご降誕なさった。
この世の中は、パンの家とはほど遠い。ヘロデだけではない。人々は罪に溺れ、自己保身に走り、まさに動物のような弱肉強食状態であり、神を失った人間の本能のままに暮らしていたのです。
しかしその下に、イエス・キリストが生まれた。もう、意味がお分かりでしょう。人間が人間らしく生きる糧として、パンとして、神の子イエスは、人間の生活の足元に、身を横たえたのです。そして、町は、世界は、ベツレヘム(パンの家)となるのです。
私のように、あたかも家の下に作られた馬小屋のような、汚れきった者、平和を望んでも、しかし苦しみに取り付かれたかのような毎日に生きるしかない、いったい私は何をしているんだろう、、、そういう存在を聖めて、イエスキリストは、この私をまことのパンによって生きる家、人生としてくださるのです。命のパンを食べる人は、そこから人間らしく生きる者に、死から命へと生まれ変わるのです。これがクリスマス。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と聖書が言う出来事でした。

緑園の町があります。あの町は、よく設計された町です。どういう意味かというと、元相鉄副社長、岡幸男さんが、一等地を教会のために用意したのです。教会が来て欲しいと、そのように町を設計した。
岡さんは、クリスチャンでした。彼は言いました。「相鉄は、町を作った。しかし、いくら人が住んでも町にはならないのです。そこに教会がなければ町にはならない」。イエス・キリストをパンとした「ベツレヘム(パンの家)」になれ、そういう祈りがあったのです。
イエスによって、人の心がベツレヘムになったとき、本当に、人は人になる。町は町になる。そのためにキリストは、馬小屋、町の下に生まれたのです。あなたも、今夜、このイエス・キリストを信じる人になってほしい。あなたの人生を「ベツレヘム」として欲しいのです。
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by rev_ushioda | 2008-12-24 23:59 | Comments(0)

区民クリスマスが、今日、行われた。
この区民クリスマスは、教会で行うクリスマスとは違う、一般向けのイベントである。区役所の後援も受けている。そうなると、宗教色を出せないわけで、「賛美」を「クリスマスキャロルを歌おう」、「説教」を「クリスマスメッセージ」などと工夫することになる。そうこうするうちに、主催者側も、うかうかすると行事をこなすだけの感覚に陥りやすい。そしてマンネリ化するのだ。
だからこそ、いかに、そこにメッセージ性を持たせるかが勝負となる。私たちは、行事にではなくメッセージにこそ、命をかけているのである。実際には、プログラムに含まれる「クリスマスメッセージ」はもちろんであるが、幼稚園の子どもたちの「ページェント(降誕劇)」もまた、最高のメッセージ力を持つものである。それ以外では、パンフレットの編集の仕方、エントランスの装飾、アナウンスの言葉ひとつとっても、そこに、福音的メッセージを盛り込むのである。
この「気合」の入れ方に、私は細心の注意を払いたいと思っている。区民クリスマスは教会への道筋に布石を置くようなもので、布石を置くというのは、先を見ていなければできないことである。しっかりと先を見て、今、終わったばかりではあるが、次の9回目に向かって行きたい。

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by rev_ushioda | 2008-12-23 23:48 | Comments(0)

「クリスマスに洗礼」

昨日、礼拝の後、クリスマス愛餐会をした。皆が持ち寄って、食事をする楽しいひとときだ。写真は、Nさんが作ってきてくれた、岡山名物「だまし寿司」。重箱の底へびっしりと具を敷き詰め、その上に、具を隠す格好で寿司飯を詰めてゆく。「これは、殿様から贅沢禁止令が出た時、庶民が考えただまし寿司なんですよ。役人の前では白飯ですが、大皿に引っ繰り返すと、にぎやかに具がのったばら寿司になる」。なるほど。ただし、そのだまし寿司も、中はその通りであったが、今回は表はご覧の通り。すばらしいクリスマスバージョンで登場。食べる前にあわてて、1枚、パチリ。野原の羊たちと、夜空に輝く大きな星。星は卵で作ってあった。
そして、もう一枚は、礼拝で洗礼式があった、そのお祝いの特大ケーキである。あいにく愛餐会に残る人数が少なかったため、子どもたちはお皿に大盛りのケーキを載せて、うれしそうだった。
クリスマスに洗礼。伝統的には洗礼は復活祭に行われてきたはず。どうしてだろうかと、改めて考えた。自己保身のゆえに身内さえ殺してきたヘロデ。そのヘロデが、ベツレヘムの2歳以下の男の子を殺したのだ。そういうヘロデのもとには戻らず、その悪と決別して「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」東の国の人たちがいたが、きっと、そこに重なると思った。悪、罪と決別し、新しい道に旅立つ者にとって、クリスマスの洗礼はふさわしい。
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by rev_ushioda | 2008-12-22 11:21 | Comments(2)

「師走の日々」

この1、2週間、もう、何かその日暮らし状態。チラシ準備、配布、幼稚園でのメッセージ、大学でのメッセージ、区民クリスマスの準備、その委員会、洗礼準備会、家庭集会、時間を見つけてクリスマス礼拝へのお誘いの手紙の発送、主日礼拝や燭火礼拝の準備、そこに面談、原稿依頼が入ってきたり・・・
「師走」とはよく言ったものだと、去年も書いただろうか。忙しさの中で、何か、失念していなければいいが・・・
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by rev_ushioda | 2008-12-18 07:23 | Comments(0)

「区民クリスマス」

「区民クリスマス」は、区内全教会、YMCAの2保育園、キリスト教幼稚園の10団体が協力して8年前から行っている。数年前から相鉄ローゼン、区役所の後援も受けて、それゆえに制約も生じたが、しかし教会のメッセージを広く世に伝える機会として用いられている。
きょうは、緑園駅、相鉄ローゼン前で30分のキャロリングを行った。通りがかりの人がちょっと足を止める程度でスタートしたが、しかし終り頃には、とりまく人も多くなった。23日本番に向けてのプレ・イベントであった。横浜ケーブルビジョンの取材があるというので、メッセージも、ということで私に振られ、短いメッセージを入れた。いわゆる「路傍」メッセージは、そういえば、初めてだったかな…
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by rev_ushioda | 2008-12-14 23:06 | Comments(0)

「秋の風物詩」

わが家のゆずの木に、実が、300個くらいなった。とげだらけなので、棒のようなもので落とすしかない。娘が妙に頑張って、取っている。下で孫が見ている。「かっこいい」ママに見えているんだろうな… それはどうであれ、ゆずの実が落ちてくるので、近寄らないほうがいい。辺りには、落ちたゆずのかおりが、ただよっている、わが家の秋の風物詩。
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by rev_ushioda | 2008-12-12 19:19 | Comments(0)