牧師30年、今思うのは、若かった駆け出しの頃の私の説教を聞いた人たちに、申し訳なかった、という思いである。
説教を準備していて、ああそうだったのか、と今になって、思いを新たにすることばかりだ。そうであるなら、かつてこの個所をどう語ったのだろう…仲間たちは、何を聞かされてきたのだろう…と思う。恥ずかしくなる。あの時の教会の仲間がいてくれたから、今、私がここにいられる。
これからも、聖書、神の言葉と向き合うこと、対話することで、きっと、あと10年もしたら、また、同じように、あの時は何を語っていたのだろう…と思っているに違いない。いつまでもこのような取り次ぎしかできない者の説教を聞いていてくれる、今、ここにいる仲間たちに、心から感謝!
そういえば、説教について、次のようなことを相沢良一先生が書いている。
将棋の駒を引用するなら、上下左右縦横に動ける飛車が自陣にいるだけでは、その力を発揮できない。敵陣に躍りこむと「竜」になり、さらに「金」と「銀」の働きを加味できるのである。我々牧師は、講壇に立ったならば「竜」にならなければならない。(「黒潮」2000年1月号)
文脈を無視して引用したが、「飛車」が説教台に立ったとき「金」や「銀」は無理でも、「竜」になったのだと、主に信頼して、そのように思っていよう。この年最後の説教を準備しながら…
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by rev_ushioda | 2007-12-28 18:16 | Comments(0)

今日、クリスマス礼拝から帰ったら、「サンタたちより」と書いたプレゼントが届いていた d=(^o^)=b 忙しいとばかり言ってないで、温泉にいきなさいと、宿泊代と共に、行き先の旅館案内のコピー。
20年以上も前、サンタからのクリスマスプレゼント、今年はどうしよう・・・と苦労していた頃のことを思い出した。忙しくてついに間に合わず、カタカナで「ヨーカドー二 トドケテアルカラ、オミセノヒトニモラッテクダサイ。サンタヨリ」なんて姑息な手段を使ったこともあった。今、プレゼントを受取る側になった。クリスマス関係のすべての行事が今晩で終わり、夫婦して風邪をひきながらも何とか無事に乗り切り、ほっとして帰ったら、ベッドの上に見つけたプレゼント。うれしいじゃないですか・・・ で、 「サンタたち」 って、誰?
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by rev_ushioda | 2007-12-24 23:37 | Comments(3)

「平和に帰りなさい」

今の、この時期は、その日暮らしみたいな感じだ。一日一日を、やっとこなしている。外部でのお話(YMCAいずみ保育園での連続4回のお話、および宮の台幼稚園でのお話)。昨日は、泉区民クリスマス(私の担当は総務で、実質、実行委員長)、そして、今日、アドベント第四主日礼拝であった。ここで転入、洗礼式があった。そして、明日の、クリスマス礼拝と続く。明日まで、何とか明日まで、とやってきた。
そういう中で、今日の転入会、洗礼は、大いに慰めと希望を与えられた。一人はインターネットでの出会いであり、もう一人は英会話の案内を通しての出会いであった。出会いの不思議さを思う。私も、チラシで教会に導かれた人間である。それが、いつか神を信じ、キリストに従う者となる。人間らしい生き方へ出発する。二人のうち一人は、今は転居先から2時間もかけて来られる。それでも、この教会での洗礼となった。洗礼名は「アビガイル」、出典は「平和に帰りなさい」という旧約聖書の言葉。たとえ、「その日暮らし」のような人生であったとしても、あろうとも、そのような言葉で出発できる人生は、何という恵みか。
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by rev_ushioda | 2007-12-23 21:48 | Comments(0)

「十字式健康法」体験記

この数日、どういうわけか、もものあたりが筋肉痛のような、どうも足に力が入らない感じになってしまった。足をひきずる感じ。階段を今までのように上れない。風邪が治らないこともあるので、これも年齢の節目というのかなあと思いつつ、しかしこの際、妻が通っている「十字式健康法」というところに、だまされたと思って行ってみようと思った。だまされたと思って、という意味は、気孔のような、体にそれほど触れもせず病気を治すというのだから、私にとっては「いかがわしい」もの以外の何者でもない。私は、目に見えない不合理なものは信じない人間である。神秘的なもの、「宗教的なもの」も、私は一切、信じない。
待合室に入ると、すごい込んでいる。奥のほうで「ウス!ウス!」と気合のような声が聞こえる。変だよな、この雰囲気、と思いつつ、順番がまわってきた。先生が、「はい、ここ、ここ、ですね」とちょっと押されるところが痛い。そしてあの「ウス!ウス!」が始まった。背中を先生に向けて座っているのだが、それほど体に触るわけではない。1分ほどで、「はい、ここ、ここ、いいですね」とさきほどのところを押されても、何も痛みを感じない。へ~、という感じで、「会場」(病院とは言わない。そう言えば「先生」とも言わないらしい)を、あとにした。あれ? さっきは足をひきづって来たのに、軽快に歩ける…
もともとたいしたことなかったんだ、普通だったんだよ、と同行してくれた妻には強がりを言いながらも、「ホントに治っている…」と思っていた。どうやら、背骨の矯正という理論があるらしいが、触りもしないで治すというところが、私の理性にひっかからず、気にいらない。(…? どこまでもひねくれている私である)。いずれにしても牧師は、ただです、という場所である。牧師として大事なクリスマス前に、結果としては「治して」もらったのだ。感謝であった。
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by rev_ushioda | 2007-12-18 10:35 | Comments(3)

映画 「マリア」を観た

映画「マリア」は、クリスマスをまえにして、時機を得た上映となった。ぜひ、多くの人にこの映画を観て欲しい。この映画は、マリアとヨセフの夫婦のあり方を本当によく描いている。
自分が知らない間に妊娠して、それが聖霊によるものだと、いったい、誰が、信じられるだろうか。自分の婚約者がやって来て、いきなり妊娠したと言われたら、どのような行動に出るだろうか。当時は石打ちの刑に処するほどの重い罪であった。そこで、御使いが語ったと、どう言ったらよいか。どう証明するのか。
説明しようがない出来事に直面したマリアとヨセフが当惑し、葛藤する中で、しかし互いを信じ、そして支え合っていく姿が、実に良く表現されていた。マリアが普通の女性であったこと、ヨセフの優しさ、神を信じるとは、具体的な行動を、普通の生活の中で静かに、力強く引き起こすのだと、深く思わされた。泊まるところを懸命に探すヨセフの姿に、思わず、そうだったであろうと、目頭が熱くなった。

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by rev_ushioda | 2007-12-17 14:45 | Comments(0)

「偽」

今年を象徴する漢字は、 「偽」だそうだ。日本漢字能力検定協会(京都市)が公募し、応募のあった9万816票のうち、「偽」が1万6550票でトップだったそうである。

旧約聖書(箴言30章7節以下)に次の言葉がある。
 二つのことをあなたに願います。
 わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。
 むなしいもの、偽りの言葉を、わたしから遠ざけてください。
 貧しくもせず、金持ちにもせず
 わたしのために定められたパンで、わたしを養ってください。
 飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。
 貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚しかねません。

偽りとは、まず、自分のなかにあることを肝に銘じなければならない。それが生活にかかっていることで、また考えさせられる。生きるためにうそをつく。偽りの言葉が出てくる。ここで大事なのは、貧しくても、富んでいても、という洞察があることだ。いずれにしても偽りの言葉が出てくる。私たち自身が偽るものなのだ。
旧約聖書エレミヤ書17章9節には 「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知り得ようか」とある。これは他の訳(口語訳)では、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれをよく知ることができようか」となっている。もっとわかりやすい訳(リビングバイブル)では、「人の心は何ものよりも欺きやすく、芯まで腐っている。それがどんなに悪質なものかはだれにもわからない」となる。
だから、祈る。キリスト者とは、祈りによって、礼拝によって、偽りを知っておられる神の前に自分を置く。そして、偽るものにならないよう、生きている者のことだ。
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by rev_ushioda | 2007-12-14 11:01 | Comments(0)

「東海道を歩く思い」

東海道を歩いて京都まで行くんだと言ってきた1年だった。まだ行ったこともない、はるか彼方を地図で見て、少しずつ歩いて、今は箱根湯元。東京からここまで、よく歩いたものだと思う。電車に乗っていると、とても歩けないだろうと思ってしまう距離も、時間さえあれば歩けるのだ!
さて、しかし11月に風邪をひき、例年、冬場はおなかの調子も良くない。この分だと、このまま2月頃までずっと風邪を引きずっていくはず?なので、年内に箱根越えは絶望的になった。
現実は、こんなものだ。さあやろうと思っても、足元でずっこける。風邪だとか、しなければならないことが山積。夫婦二人の調子が合わなければ、そこでまた延期。しかし、私はずっと京都を見つめ続けている。生きているうちには行けるだろう。それでいい。先を見ていると、毎日の景色は、心なしか華やかだ。違った景色に見えてくる。
先を見て生きるというのは、私の牧師としての仕事に重なってくる。水平線に向かって投げる石が、しかしそんなところまで届くはずがなくそのあたりにポチャンと落ちる。それでも水平線に向かって石を投げ続ける。牧師は永遠に向かうカタパルト(石投げ)だ。そのように神の国の希望を語る。すると、いつしか隣の人も、その方向に向かって、石を投げ始める。一人が、どこを見ているかが大事なのだ。東海道は、それと重なる。私は、京都に向かって歩いている。神の国に向かって、顔を上げている。永遠に向かうカタパルトでありたい。
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by rev_ushioda | 2007-12-05 23:13 | Comments(0)