一日旅行で、富士山YMCAと峰山教会の中華料理をいただくコースを設定したところ11名が参加。夏に行なわれるキャンプの下見ができた。私は、風邪のために不調の中をおして出かけたが、何とかまもられた。富士山YMCAは宿泊棟も良く、敷地は広大で、すばらしいキャンプ場であった。夏のキャンプがますます楽しみになった。
峰山教会では矢野先生の中華料理をいただき、その後、富士山のたくさんの写真を見せていただいた。牧師がプロなのだが、料理も写真も実にプロ並み、すばらしい腕前である。峰山飯店、峰山ギャラリーの二つを楽しみ、800円。贅沢なコースだった。

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by rev_ushioda | 2007-05-31 21:41 | Comments(0)

野村兄が洗礼を受けられた。55年にもわたる、野村兄だけしか知りえない思いがあった。しかし、今、その重荷のすべてを主に明け渡す時が来たのであった。私たちは、55年にわたる主の洗礼準備の時があったのだと悟った。だから、洗礼を申し込まれて2週間のスピード洗礼となった。一同、非常に感動した洗礼式であった。

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by rev_ushioda | 2007-05-31 20:18 | Comments(1)

「最期の時を共に」

○○さん
祈りをお伝えしようと気になりつつ、日が過ぎていました。
こちらのことは、どうぞ気になさらないでください。大変な中をお過ごしですから、ぜひ今は、ふたりの時を大事になさってください。きっと、今までのなかで最高の時間を共にされているに違いないと、そのように思っています。どうぞ、御主人が寂しくないようによく寄り添ってあげてください。また、主がそこにおられて、最善をなしてくださるでしょう。希望の明日を生きるために。

主の平和
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by rev_ushioda | 2007-05-25 18:00 | Comments(0)

「マゴマゴ」

孫でマゴマゴなどと言うが、母親とはそういうものなのだろう。
娘が「そっちの家に行くよ」と言うと、それはすなわち、迎えに来てほしいという意味なのだ。「買い物に行きたい」と言うと、一緒に行ってほしい(車を出してほしい)という意味だ。だからと言って、迎えに行かないわけはないし、車を出さないわけはない。結局、妻はそういうことでいつも飛び回っている。
何にしても、これが親子の所以である。
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by rev_ushioda | 2007-05-25 13:31 | Comments(0)

「憲法百人一首」

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春過 ぎて/夏来りなば/息絶えの
九条干すてふ/国の香具師(やし)ども

取り引きの/与野党の尾の/しだり尾の
まがまがし世を/人は忌むらん

海の外に/うち出でてみれば/白煙の
異国の大地に/弾はふりつつ

etc.
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by rev_ushioda | 2007-05-25 10:22 | Comments(0)

「ピース9の会」

今ならまだ間に合います。かろうじて9条が生きているからです。
今、世界の人々が憲法9条を注目し始め、それを残してほしいと願う声が高まってきています。「テロと戦う」という理由さえあれば、武力攻撃も戦争もまかり通りつつある国際社会の中で、9条は「平和の文化」を築くために貴重なしるしと希望を人々に与え続けています。他の国では、このような憲法を作りたいと望んでもほとんど不可能で、「いつか実現してほしい夢」となっているのです。アメリカのオーバビー博士は「憲法9条の会」を作って訴えています。もはや、日本だけの憲法9条ではなく、世界の平和のための貴重な宝となっているのです。
憲法9条はまだ私たちの手元にあり、手放していません。
皆さん、一緒に憲法9条を守り、その精神を平和へのメッセージとして世界にも発信し、それを実際のものとするために何らかの行動を起しませんか。このことが本当の平和と人間の幸福につながる「平和の文化」をつくる道と信じるからです。
― 趣意書より。

申し込みは、 「趣意書」
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by rev_ushioda | 2007-05-25 10:12 | Comments(0)

「不活動会員」

礼拝を共にする会員を「活動会員」と言い、礼拝に出れない会員を「不活動会員」と言う。
礼拝に出ることができない、と一言で言っても、いろいろ事情がある。精神的やまいを背負うために人の中にいられない、という人。認知症のため、子どもの家庭に転居して行った人。もともと礼拝に出ていなかった他教会員を特例で教会員として迎えたために、初めから不活動会員である人。
それ以外では、自らの理由を持って離れた人もあるが、いずれにしても「会員」である。仲間である。そして、私はこのような仲間を持つことが、教会として大事な意味を持つことにもなると思っている。
昔は、不活動会員を持つことに何か後ろめたさだけがあった。しかし、少なくとも上の三つの例にあるような友たちを受け入れていくことは、誤解を恐れず言えば、教会としての使命のように感じる。
ここに述べなかった他の例も、みな、同じである。使命をどう形にするかは、悩むところであり、課題であり続けるが ―
しかし、このような悩みと課題を切り捨てず、持ち続けるところに、教会があるのではないか。
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by rev_ushioda | 2007-05-24 15:34 | Comments(0)

「説教を本にする」

6月から、「使徒信条」の説教をする、と案内している。
そして、それを本にすると言ったが(←先のブログ製本に味を占めて)、だからと言って、今すでに、説教の内容(原稿)があるわけではない。説教は、いつもそうであるが、産み出されていくもので、初めからあるものではない。本にすると言ったが、しかしその内容(原稿)は、説教が産み出されるまでは、何もないのである。だから、ないものを本にすると言うのは、これは、かなりの冒険である。
説教は、実のところ毎週毎週、いつも未知の言葉を産み出す、冒険なのだ。この冒険に踏み出してこそ、説教が説教になる。
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by rev_ushioda | 2007-05-22 17:15 | Comments(0)

灰谷健次郎という、児童文学者の作品『兎の眼』。学校の先生が子どもたちのために真剣に向き合っていく物語である。その中で、足立先生という小学校の先生が、ハンガーストライキをしている、そこに訪ねてきた子どもたちと、会話をする。

「先生、しんどいか」「うん、苦しい」子どもたちはどうしていいのかわからない、じっと足立先生の顔を見た。
「いま、空を見とったら流れ星が行きよった」「あの晩も流れ星が多かった」 「あの晩いうて」 「先生が生まれて初めてドロボーした晩や」 「先生がドロボーしたの」
「今みたいに腹がへって死にそうな時に、先生はドロボーした。一日に親指くらいのじゃがいもが五つ、ご飯はそれだけやねん。先生はお兄ちゃんと二人でドロボーに入った。こっそり倉庫に忍んで大豆やトーモロコシを盗んだ。怖かったなぁ。先生はドロボーが恐ろしゅうて恐ろしゅうてかなわんかった。だから、四、五回でやめてしもた。先生のお兄ちゃんはドロボーが平気やった。何回も何回もドロボーしたんやな。兄弟が七人もいたから、ツバメが餌を運ぶように何回も何回もドロボーしたんやな」
「おまわりさんに捕まらへんかったんか」 「捕まったで。何回も捕まった。けど、何回もドロボーした。先生のお兄ちゃんはとうとう少年院に送られることになってしもうた」。

「その日、先生のお兄ちゃんは死んだ」。

「先生のお兄ちゃんは、死んだとき、文庫本の『シートン動物記』がボロボロになってポケットに入っとった。何回も読んだんやろなァ・・・ ドロボーして平気な人間はおらんわいな。先生は一生、後悔するような勘違いをしとったんや。先生はお兄ちゃんの命を食べとったんや。先生はお兄ちゃんの命を食べて大きくなったんや」。

「わたしが命のパンである」(ヨハネ6:35)と言われた、主イエスの言葉と重なる。私たちは、一生、後悔するような勘違いをしない者となろう。
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by rev_ushioda | 2007-05-18 22:25 | Comments(0)

「ブログを本にした」

ブログを本に出来るということが、わかった。
ちょうど東海道を横浜まで来た記念に(?) 結婚30年の節目でもあるし、試しに作ってみようという気になった。料金が安かったから、その気になったということもある。
今までの分を全部送ってみた。すると、PDFファイル(これで印刷してよいかという印刷見本)が、送信直後に、もう送り返されてきたのには、驚いた。この編集作業は、納得いくまで何度繰り返しても無料であった。最終的に、ページ数137ページとなった。
印刷・製本代、つまり本1冊の値段が1,859円、送料525円で、総計2,384円。1冊注文した。自費出版で、しかも1冊だけで、こんなに安い本はできないだろう。
1週間もかからず、出来上がった本が送られてきた。写真のサイズを落としてブログにアップロードしているので、画質が悪いのは目をつぶるとして、仕上がりに満足した。

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by rev_ushioda | 2007-05-16 23:13 | Comments(2)