「終活しよう」

前回、会員籍のある教会で葬式をする、という話をしましたが、死んでからでは、どのようにしてほしいか家族にその希望を伝えられません。今、生きているうちに自分の死の備えをしたいと思います。そのことを最近では「終活」と言うようになりました。しかし、身辺整理、遺産分割のことも大事ですが、そもそも葬儀をどうするかということが、私たちキリスト者にとって一番大事な「終活」になります。葬儀はいらないとか、小さな家族葬がいいとか、自然葬がいいという方もいますが、いずれにしても、葬りは必要なのです。そして、葬儀は自分が信仰に生きた証しの時なのです。


1.何よりも大事なのは、キリスト教で葬儀をすることです。その意志と、連絡先を書いておくことです。稀に、本人の信仰ではなく、ご家族の意向で他宗教に従って葬儀をしてしまうことが起こります。牧師が、ご家族に向かってこの方はキリスト者でしたから…と、どう言っても、しょせん第三者ですから、受け付けてもらえません。信仰者の最期の締めくくりが他宗教になってしまうことほど、残念なことはありません。キリスト教で葬儀をすると、その指示を書いておくことが大事です。


2.自分の信仰を証するような一文をしたためておくことも、大事なことです。洗礼の時の証しから始まって、日々の信仰生活を証しする文は、家族に対して、場合よっては葬儀の列席者に、大きな影響を与えるに違いありません。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」ヨハネ12:24


3.自分が養われ、励まされてきた賛美歌を、いくつか選んでおきます。葬儀では必ず賛美歌を歌います。讃美歌、聖歌などから、愛唱賛美歌を書き出しておきましょう。


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by rev_ushioda | 2016-07-06 13:14 | 生き方 | Comments(0)

東海道、今回は全行程約30キロ、知鯉鮒宿(知立)~鳴海宿~宮宿(名古屋)~桑名宿~四日市宿の3日間のコースであった。私が参考にしているガイドブックの著者は、これを1日で踏破している「つわもの」である。

今回のコースには特徴がある。
第一に、三河の国から尾張の国を通って、伊勢の国という、何と、3国をまたいだこと。ついに伊勢の国(三重県)である。
第二に、途中、伊勢湾を渡ったことである。東海道は伊勢湾でたくさんの大河を回避するために海上7里の海を渡るのである。昔は一日がかりであったらしい。今は、伊勢湾岸道路ができているが、この道路がまた、巨大な橋の連続で、実に壮観であった。(標題をここで章分けしたのは、上の二つの理由による)
第三に、四日市、その先の津は、明治時代、私たちカンバーランド長老教会のヘール宣教師が活躍した地域であるということである。今回は四日市教会と、津に近い阿漕教会の二つを訪ねてみた。
第四に、出産のために郷里、津に帰っているY姉を訪ねたこと。

1日目(7月26日) 知鯉鮒(知立)宿~鳴海宿

知鯉鮒(知立)から鳴海まで。家を6時に出て、知立11時20分出発。鳴海に4時30分着。休憩を入れて約5時間。
途中、境川の境橋を渡る。ここから豊明市で、ついに7ヶ国目の尾張の国である。その先の有松は、絞りで有名な町。東海道の両側は、時代を感じる立派な家々が建ち並んでいた。到着した笠寺のホテルは、「湯~とぴあ」という施設を併設、いろいろなお風呂を楽しむことができた。ホテルは、最近はすべて素泊まりにして、宿泊代をかせいでいる。

この写真は三河の国から尾張の国に入ったところ、境川にて。
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2日目(7月27日) 鳴海宿~宮宿(名古屋)~桑名宿~四日市手前

前回から、始発電車を利用しスタート地点まで移動、午前中を有効利用するようにしている。
鳴海を朝6時スタート、名古屋の熱田神宮まで。そこが宮宿で、そこから海上7里、東海道は海を渡ることになる。我々は伊勢湾岸道路を使ったが、巨大な橋の連続で、壮観であった。なるほど、昔は舟で一日かかったというのも、納得する伊勢湾である。
三重に渡って桑名から四日市を目指すも、暑さのために3時、富田でリタイア。しかし今日の9時間は、たくさんの休憩を入れたとしても、あの暑さの中、なかなか立派な記録である。というか、限界である。
途中、休憩で立ち寄った喫茶店での会話は、大阪弁であった。伊勢湾を渡れば、いよいよ大阪、そして京都に近いことを実感。



3日目(7月28日) 四日市手前~四日市宿

ホテルから早朝の「外出」で、6時 富田をスタート、四日市には7時30分に到着。ここでホテルに戻り、シャワーを浴びる。余裕の3日目と言いたいが、脚はもう限界かも。
さて、この日は津に居るY姉を訪ねることになっていて、途中、四日市教会、阿漕教会に立ち寄ってみた。四日市教会は1890年(明治23年)、ヘール宣教師兄弟によって誕生した。阿漕教会もヘール宣教師によって、1909年(明治42)誕生している。残念ながら、両教会とも集会中で、牧師に会うことはできなかった。しかし、この地域を私たちのカンバーランド長老教会から派遣されたヘール宣教師たちが歩き、語り、教会を生み出したかと思うと、感慨ひとしおである。阿漕教会の墓地には、ジョン・ユージン・ヘール夫妻が眠っている。その場所が分からず、今回、ようやくのこと近くまで来ながら、行くことができなかったのが、一番の心残りだ。
その後、津にいるY姉を訪問。田園地帯であるのにカーナビはありがたい。迷わず、一発で畑の中の1軒家まで案内してくれた。ご両親とも親しいお交わりをいただきつつ、ご家庭の祝福と、臨月に入った姉のため、無事の出産をお祈りした。

さて、一路、帰宅の道中。さすがに高速でも7時間の車中は、なかなか辛いものがある。四日市から先、「京」を目指す旅はいよいよ楽しみであるが、ここまでの行き帰りの車中を思うと、途端に気が重くなる。

今回の行程は以下の通り。知鯉鮒(知立)から、鳴海、宮の二つの宿を経て伊勢湾を渡り、桑名を経て四日市までの30キロ(海上部分は伊勢湾岸道路)。こうして地図を見ると、ものすごく距離を延ばした感じがする。

鳴海宿から宮宿(名古屋) http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=bad3fde4e70c90110dfcbc14c18264b0
桑名宿から四日市宿 http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=b3907b69809e71bcd4b44f03f4e6f665

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by rev_ushioda | 2010-07-29 15:27 | 生き方 | Comments(0)

「掴み取られる」

私が初めて飛行機に乗ったのは、アメリカのチャタヌガというところに行った時でした。エンジンの音が高まり、小刻みの振動があったかと思うと、急に、何か上からつかみ取られたというような感じで浮き上がり、かなりの上向きの角度で上昇していくのですね。何から何までめずらしいので、離陸してからずっと窓の外を見ているのですが、気付くと、ほとんどの人は窓の外など見ていない。新聞を読んだり、隣の人と話したりしているわけです。
あの飛行機の中の人たちは新聞を読んだり、人と話したりして、つまりまったく普通の生活の営みをしているわけですが、その人たちがまるごと上からつかみ取られるようにして、飛行機は、上昇していくのです。
私は、そこで大事なことに気付きました。なるほど、私たちは一生懸命にこの問題、あの問題を何とかしようと走りまわる。あるいは、日常生活を当たり前のように生きているのですが、自分の力ではない、他の力で人生が支えられているというか、掴(つか)まれているわけです。当たり前のことを当たり前のようにして生活している私たちですが、しかし、その私たちは、もう神さまから、掴(つか)み取られているということなのです。
このような見方、考え方を養っていくことが、教会に行くということなのです。毎日の生活がいかに大変であろうとも、逆にいかに平凡であろうとも、いずれにしてもそれは当たり前ではない力に支えられている、神の恵みの中にある、ということです。そのことを知る人は、人生、変わります。気持ちの持ち方、世界の見方、病気や苦しみへの対処の仕方、そして人間関係も、変わります。
聖書の言葉「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲(わし)のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)。泉教会では日曜日朝10時30分に、初めてのあなたもお迎えしています。一緒に心を高く上げましょう。

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by rev_ushioda | 2010-07-12 18:04 | 生き方 | Comments(0)

座間市に、「行幸道路」という名前の道路があります。行幸というのは、天皇が外出することを言うのだそうですが、戦争中、天皇が国鉄相模原駅から座間市にあった陸軍士官学校、現在のキャンプ座間に来ることになった。ところが、道は曲がりくねっている上に舗装もしていない。これではいけないということで、急遽、工事をして道幅を広げ、真っ直にしたのです。

大事な人物が来られるというので落ち度がないようにきちんとやるのは、それはそれでいいのですが、そうすることは人々に相当の緊張を強いることになります。

考えてみると、私たちはいつもそのような、狭い道は広く、曲がった道は真っ直に、でこぼこの道は平らに、というようなしかたで人生を生きるように期待されているのではないでしょうか。あとから来る「良い地位」「収入」や「名誉」「名声」時には「メンツ」のために、狭い道は広く、曲がった道は真っ直に、でこぼこの道は平らにしようとする、いわばそういう「洗礼」を、誰も受けていると言えないでしょうか。こうしなければならない、こうしてはいけないという「行いの洗礼」を、いつの間にか、私たちは自分の意志とは無関係に受けているのです。けれども〔家では親から、学校では先生から、会社では上司から〕期待されればされるほど、そうできない現実の自分とのギャップを感じるようになり、だから苦しくなるのではないでしょうか。辛くなるのです。
それに対してキリスト教の洗礼というものはどういうものかと言うと、神さまに愛されているという洗礼です。狭い道も、曲がった道も、でこぼこの道も、そのままで愛されている。神さまに受け止められている。そこにはきっと意味がある。そこから、すべてのドラマが始まる。だから、心を高く上げよう。そのように呼び掛けるのが、キリスト教なのです。そこに希望のドラマがあります。ここに、まだお会いしたことのないあなたがおいでくださるのを楽しみにしています。
みんなのキリスト教・泉教会は、相鉄線いずみ中央駅、または市営地下鉄立場駅で下車、どちらからも歩13分。電話番号は、045-803-1749。
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by rev_ushioda | 2010-07-02 10:53 | 生き方 | Comments(0)