「ペンテコステ」

泉教会のジンクス。特別な時は、人が少ない。
さて、今年のペンテコステは? 例年、この日に記念写真を撮ることにしているが、二人先に帰られてはいるが、やはりというべきか。ところで、この面々の中に、去年まではおられなかった方々が映っている。教会というところは面白い出会いの連続であり、物語を作り続ける場だと思う。
f0086426_1915751.jpg

今日の説教は「 ペンテコステ、不思議な業としるしの初め」 (使徒言行録10:41-47) 以下、要約。
今は教会となったこの家と出会ったとき、宗教法人として借りました。しかも不特定の人が出入りすると聞けば、たいてい断られるのです。ましてや、数週間後の会議の決定待ち。普通の家族が借りたいと言っていた、まさにその時、3日早く私と出会ったというだけで、大家さんは待ってくれた。この世の非常識は、神の常識。ここから、物語が始まったのです。
教会は、不思議な業としるしを行っていたというのです。それは何かというと、一つになってすべての物を共有にし、分け合っていた。毎日ひたすら心を一つにして祈り、家ごとに主を記念し、喜びと真心をもって一緒に食事をした。それによって「民衆全体から好意を寄せられた」恐れが生じたというのも、尊敬と好感が寄せられたということです。入りたいけど入れない、そんな感じでしょうか。私たちは、そんなことは何も不思議な業ではない、常識ではないかと思う。しかし、それはこの世からすれば非常識ではなかったか。
「恐れが生じた」、そこから新しい物語が生まれていったというのです。ペンテコステとして今日、私たちが祝うのは、爆発的な人数増加ではない。そうではなく、世界中から来た人たち(5、9-11節)が日々仲間に加わり、共同の業にいそしむこと、それを祝うのです。ペンテコステは、同じもの一色に塗りつぶされていく世界の常識から、あらゆる違いがありつつ、それを超えて共同の業に生きる神の常識に動き始めた瞬間でありました。
カンバーランド長老教会の総会(GA)が開催されるのは、まさに今年のペンテコステに際して、象徴的なことです。いつもこの世の常識に支配されそうになる時(それは私たちにとって決して無縁ではない!)しかし、私たちは神の霊に動かされて、あらゆる違いを超えていく者になる。「非常識」な者になるのです。それが、教会だからです。私たちはこの世の常識との狭間で、しばしば、よく分からないことに直面する。しかし、そここそ大事なところ。躊躇せず、世界中から来た人たちが共同の業にいそしむ「不思議な業としるし」を選び取りたい。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
[PR]
by rev_ushioda | 2008-05-11 18:20 | Comments(0)