「あけましておめでとうございます」

元旦礼拝説教

教会の暦では今日、1月1日は、主イエスがその名を「イエス」と名付けられた日になっています。新しい年の出発に当たって、イエスというお名前から、私たちの歩みが始まる。私は、このことは非常に意義深いことだと思うのです。
私は、泉教会の会員になった方々に、いわゆる「洗礼名」を差し上げています。これは教会が決めたことではなく、私が個人的にしていることですが、その名前の、もとの「持ち主」の信仰にあやかって、どうか信じる生活をこれからも豊かに進めていってほしい、という願いを込めています。その人物の信仰に「似る」ことを願ってのことです。その名前から始めてほしい。その人物を通して、神さまから与えられた自分の務めを見出して、担っていってほしい。今朝は、全員がイエスという名前の前に立っているわけです。イエスという名前から出発したいわけです。
昨年1年を振返ってみても、色々なことがありました。Sさんを天に送りました。病気になった人もいます。離婚された方々が、います。もちろん、うれしいこと、結婚された方もいます。新しい年もまた、いろいろなことが起こるであろう、その1年の初めに、イエスの名を覚えるということ(イエスの名を心の中に深く刻みつけてこの年を歩むということ)は、この1年、たとえ、どのようなところを通ろうとも必ず、大きな恵みであるに違いないと思います。
平塚敬一先生が、お嬢さんのことを話されています。「次女は6歳のとき、重い脳の病気にかかり、命を失いかけたが奇跡的に助かった。しばらく入院生活が続いた日々、病室で本を読むことに夢中になった。そして、ある日『アンネの日記』を読み、自分の誕生日がアンネと同じであることに気付き、驚きと共に深い感動を覚えたと、言ったことがある。私たちはアンネの誕生日が6月12日であることを知って次女を計画的に生んだのではないが、彼女に素敵なプレゼントができたように思っている」
人は、ほんのちょっとした出来事との出会いで、自分の存在を誇りに思うようなことがある。そして想像の夢を膨らませ、その実現に向かって突き進むことができるようになるのです。ある日ある時、ちょっとした光り輝く一瞬によって、生きる支えが与えられるようなことがあります。それは他の誰とも違う、自分独自の感動であり、他人には説明できないものです。そうであれば、アンネではなくイエスというお名前と自分とを重ねたならば ― その意味が罪の赦しであり、救いの出来事である主イエスのお名前と私たちを重ねたならば ― その光は、どれほど輝くことだろうか。大変な感動となるに違いない。
「“イエス”とは、私が新年に最初に口にする言葉。これからずっと、その名が私の口の中で笑い、私の最後の日にも、“イエス”は私の最後の言葉となる」 (J.S.バッハ)。
1年の初めにイエスのお名前を聞くことによって、私たちは、イエスの名による、笑いのドラマを作ることができるのです。イエスの名が、人間らしい喜びの中に、私たちをつれ戻してくれるのです。

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Commented by Nao at 2008-01-04 02:15 x
ときどきここを覗かせていただいていますよ。(ご存知かも知れませんけど…)

知っている名前が出て来てビックリでした。平塚先生、私が出た学校で校長をされていた方ではありませんかっ!
先生のプライベートにそんなことがあったなんて、もしかしたら初耳です。先生の礼拝メッセージ、何度も聞いていたけれど。

神さまのご計画って、本当に計り知れないですよねo(^-^)o
Commented by adoishu at 2008-01-04 07:54 x
平塚先生は、今は他校に移って、そこで活躍していますね。私なんか同じ話(娘のこと)を何度もするものだから、娘から出演料を払いなさいといわれてます (^◇^;
by rev_ushioda | 2008-01-01 01:00 | Comments(2)