「日々新たな聖書の言葉」

牧師30年、今思うのは、若かった駆け出しの頃の私の説教を聞いた人たちに、申し訳なかった、という思いである。
説教を準備していて、ああそうだったのか、と今になって、思いを新たにすることばかりだ。そうであるなら、かつてこの個所をどう語ったのだろう…仲間たちは、何を聞かされてきたのだろう…と思う。恥ずかしくなる。あの時の教会の仲間がいてくれたから、今、私がここにいられる。
これからも、聖書、神の言葉と向き合うこと、対話することで、きっと、あと10年もしたら、また、同じように、あの時は何を語っていたのだろう…と思っているに違いない。いつまでもこのような取り次ぎしかできない者の説教を聞いていてくれる、今、ここにいる仲間たちに、心から感謝!
そういえば、説教について、次のようなことを相沢良一先生が書いている。
将棋の駒を引用するなら、上下左右縦横に動ける飛車が自陣にいるだけでは、その力を発揮できない。敵陣に躍りこむと「竜」になり、さらに「金」と「銀」の働きを加味できるのである。我々牧師は、講壇に立ったならば「竜」にならなければならない。(「黒潮」2000年1月号)
文脈を無視して引用したが、「飛車」が説教台に立ったとき「金」や「銀」は無理でも、「竜」になったのだと、主に信頼して、そのように思っていよう。この年最後の説教を準備しながら…
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by rev_ushioda | 2007-12-28 18:16 | Comments(0)