「偽」
2007年 12月 14日
旧約聖書(箴言30章7節以下)に次の言葉がある。
二つのことをあなたに願います。
わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。
むなしいもの、偽りの言葉を、わたしから遠ざけてください。
貧しくもせず、金持ちにもせず
わたしのために定められたパンで、わたしを養ってください。
飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。
貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚しかねません。
偽りとは、まず、自分のなかにあることを肝に銘じなければならない。それが生活にかかっていることで、また考えさせられる。生きるためにうそをつく。偽りの言葉が出てくる。ここで大事なのは、貧しくても、富んでいても、という洞察があることだ。いずれにしても偽りの言葉が出てくる。私たち自身が偽るものなのだ。
旧約聖書エレミヤ書17章9節には 「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知り得ようか」とある。これは他の訳(口語訳)では、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれをよく知ることができようか」となっている。もっとわかりやすい訳(リビングバイブル)では、「人の心は何ものよりも欺きやすく、芯まで腐っている。それがどんなに悪質なものかはだれにもわからない」となる。
だから、祈る。キリスト者とは、祈りによって、礼拝によって、偽りを知っておられる神の前に自分を置く。そして、偽るものにならないよう、生きている者のことだ。