「葬礼拝 説教」

ヨハネによる福音書14章1~6節

以前、私は青森県の竜飛岬に行ったことがあります。当時、ちょうど青函トンネルの工事が進行中で、岬の先端に、そういうところの地形(岬の地形)とは不釣合に、工事をする人たちのちょっとした町ができていました。陸から海に向かって目を転じると、そこは津軽海峡です。海峡だからでしょうか、何か海が大きな川のように動いている、動く海に、恐ろしさを感じました。そして、ああ、この海の下をトンネルでつなぐのか、すごいなあ、という感じでした。
それからしばらくして、新聞に「先進坑が開通」という記事が載りました。北海道側からの試験トンネルと本州側からの試験トンネルとが海の下で繋がったというものでした。万歳をしている写真がありました。それは本トンネルではありませんが、試験トンネルがつながった以上、本トンネルは保証されたというほどの喜びだったのです。

私は今日、Sさんの葬儀に際して、そのことを思い起こしています。葬儀というのは、人間の死に際して行う営みです。人は、最期には皆、死にます。一生を考えてみても、現実には悩みとか、苦しみとか、涙することもあるわけです。Sさんのように、確実に悪くなっていく、病気がある。人の現実で一番厳しいのが、死です。死ぬということ。もうそれは絶望であり、恐怖でしかありません。それは、津軽海峡の大きな 潮の流れ のように、越えることができるなら越えてみろ、とでも言うかのように、こちらをにらんでいる。それは、生きてきたことを確実に終わらせるものなのです。そこをどう渡っていけるのか、途方に暮れてしまう。
Sさんは自分の病気のことについては弱音を吐かなかった。だからといって、自分が死んでいくことが分かっていながら、恐くないわけがないのです。
しかし、イエス・キリストは人間の死を突き破って復活されたと、聖書は言っているのです。Sさんは、そのことを信じていました。復活の先に天国があるということ。そして自分と天国とが確実につながっているということを、信じたのです。洗礼の証しをご覧いただけば、わかります。
あの津軽海峡のような海しか見ない時には、まさかその下でトンネルが掘られているなんて、信じられないわけです。同じように、人間の現実しか見ていない目には、その現実の中をキリストが突き抜けて行かれた、復活されたという聖書の記事は、何のことだかわからないのです。
しかし、たとえあの津軽海峡のような、渡るに困難な現実がそこに横たわっていようが、だから、どうしても希望が見えなかろうが、キリストが、私たちの中で死の壁を破って復活されたと信じる人は、その現実に押しつぶされないのです。先の喜びが、その人の困難な現実を、包み込んでいるからです。
もう、キリストは、トンネルを貫通させているのです。もう勝負はついているのです。キリストは言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。このキリストと出会い、このキリストを信じていく者は、いかなる困難の中でも恐れや絶望に支配されず、不安や悲しみに魂を売り渡さず、正々堂々、歩んで行くことができるのです。
Sさんは、もう一度言います。天国の信仰の持ち主でした。死を予感した時から・・・( 具体的には洗礼を受けたときから)死を突き抜けている道があることを見ていたのです。病気で体は衰えて行くとしても、だからといってそれで終わりではないという、天国の信仰を持っていたのです。
ひょっとしたら、体が弱っていくことだけではなく、どうしょうもない心の弱さということも、知っていたのではないだろうか、とも、私は思う。罪を犯さない人間は、いないからです。人を悲しませない人間はいないのです。やってはいけないとわかっていても、体が動いてしまうということも、人間にはある。決意しても、その心は弱いというのが、人間です。そういうことを、Sさんは一番良く分かっていたかもしれないと、ふと、思うのです。人間には、どうしょうもない人間の弱さがある。
しかし、だからその中をキリストが突き抜けて行かれたのだ、と聖書が言っています。体の病気であろうが、心の弱さであろうが、人間の一切の弱さをキリストはご自分の体に引き受けて下さったのです。そして、天国への道筋をつけてくださったのです。それを見ることができる人は、幸いです。その道に、進み出ることができる人は、幸いです。

先ほどの聖書に、次のように書かれていました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

キリストが、行って、場所を用意して、戻って来て・・・と、道を作ってくださると言われています。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と。
「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われましたが、十字架と、十字架の死のことです。自ら死に向かって行く、と言うのです。そこにまでキリストは下って行って、私は道である、と言われて、そこから、今度はどこに行くのか。天です。天に向かって、「父の家」に向かって、人を引き上げるのです。用意した居場所に引き上げるのです。その道をつけるのです。キリストは、私たちのために、私たちの居場所のために、行ったり、来たり、しているのだということ。困難や、人間のさまざまな限界、そしていよいよ死に直面して、その恐ろしさを感じている人のために、行ったり、来たりして、居場所と、通路を作ってくださっているのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。そう言われたのです。
人間の努力、頑張りは、すばらしいものです。あなどってはいけないものです。しかし、困難に直面すると人間は、強そうで、弱い。いえ、困難などなくても、勝手に自滅するような人間です。まして死の力は、私たちの希望を奪うのに十分です。その力に支配された時、その死の力、絶望の力を打ち破って、突き抜けて、キリストは上り、また下って来られる。私たちの居場所を確保し、そこに入らせるために! ・・こんな希望が、あったでしょうか? あるでしょうか? だから、私たちは救われるのです。
トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。Sさんは、確実にそこを通って行った。自分で信じたとおりに。そのキリストの道、「命」の道は、今度は、私たちに開かれているのです。私たちも、その道を歩み始めましょう。そうすれば、今日は、私たちの残りの人生の最初の日です。
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by rev_ushioda | 2007-06-12 19:26 | Comments(0)