「目指す地に」

礼拝の説教は、個人的なことは触れない。
しかし、困難と、健康が脅かされる仲間がいるとき、それを知らないような説教はできない。

以下、2007年4月22日の説教である。
(ヨハネによる福音書6:16-21 による一つの黙想)

同じ内容を伝えるにしても、ここでは、だいぶ簡潔に伝えている。
すると、伝えたいことが強調されている、ということです。
ここで、聖書は何を伝えたいのかと言うと、
湖の上を渡る主イエスを迎えるならば、目ざす地に着くということです。

湖が荒れ始めたのです。
この「荒れる」という言葉は、起き上がって来た、という意味です。
波が起き上がって、行く手を阻むのです。

私は、西丹沢を歩いたことがある。
雨の中、ひと山越えたところに妻を待たせ、一人で歩き始めた。
1時間くらい歩いたところにあった看板に「熊に注意」。
どのようにしたらいいのか途方に暮れた。
熊と鉢合わせし、大怪我をした、死んだ、というニュースが頭をよぎる。
生きた心地がしないとは、こういうことか。
妻はこの先にいるから、戻るわけにもいかない。
音を出せばいいことは知っているのに、
音を出せば熊に気づかれると思い、反対に、そっと歩くのです。
こうして、おそるおそる歩いて行くと、行く手で「ガサッ」。
「出たっ」・・・様子をうかがうこと数分、それは雨垂れの音だった。
雨だれの音さえ恐ろしい。

湖が荒れる。波が起き上がって行く手を阻まれるとは、そういうものです。

その時に「私だ」と呼びかける声があった、そこに、神がおられるという意味です。
その主イエスを迎えようとしたら、風はまだ止まないにもかかわらず、目的地に着いたのです。
風があっても、その風は、一瞬にして無力になったのです。

主イエスを我が神として迎える者になろう。
あなたは、確かに目指す地に着くのです。
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by rev_ushioda | 2007-04-23 09:25 | Comments(0)