「傍観者」
2018年 05月 12日
そして、思いました。もしかしたら私たちもいつの間にか、礼拝者ではなく、傍観者に、キリスト者ではなく、評論家になる要素はあるのではないかと。
傍観とは、外側から見ることです。泉教会を構成している一人という、つながりからではなく、つながりを持たない外側から、教会を見るのです。その人は、当たり前ですが「私の教会」とは決して言わず、「この教会」と言います。私たちの中に傍観的態度があると、「この教会」と言って、批判的態度になるのが常です。すると、あのキャラバンする人のように、礼拝は守らない、献金はしない(教会を支えない)、いつも他の教会と比較する、…ようになります。教会を壊すものが、もし、あるとしたら、このような「傍観的態度」だということは、言うまでもないことでしょう。教理や、牧会の内容によって教会が壊れることはきわめて稀で、多くの教会で問題が起こるのは、「この教会」と言う、傍観的な態度が原因しています。悪魔が教会を壊すためにまず最初に用いる巧妙な方法は、果たして教会員の口に「この教会」と言わせることでしょう。
自分がはたして傍観者か、そうでないかをチェックする簡単な方法、それは、泉教会を「私の教会」「私たちの教会」と言っているか、いないかです。