「信仰の冒険」

先日、ささげられた献金の袋に「十一献金」とありました。
「十一献金」とは、字の通り、十分の一献金のことです。十分の一献金とは、収入の一割は神さまのものだから神さまに「お返しする」献金です。もちろん、教会にそのような決まりがあるわけではなく、この人は、自発的にそのようにされているのですが、「十一献金」というくらい、教会ではこの言葉は昔からよく使われてきました。
それがどこから来たかを考えると、やはり旧約聖書の、あの御言葉に思い至ります。 - 「十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。」(マラキ書3章10節)
聖書は、神を試みてはならないと言っているのですが、この個所は唯一、神を試してみよ、と言っているのです。しかし「試してみよ」と言うくらい、そんなに献げたら生活が成り立たないと、聖書の人々も考えたのです。だからこそ、神さまは「わたしを試してみよ」と、信仰は、「冒険」だと言われているのです。水泳を学ぶ者が、水に飛び込まないで泳ぐことを習得出来ないように、神のふところに飛びこまないで(信仰の冒険をしないで)、天の窓が開かれ、祝福が限りなく注がれるという体験は出来ないのです。
つまり、十分の一であろうがなかろうが(それが問題なのではありません)私たちキリスト者にとって、信じるとは「身をゆだねる冒険である」ことに、この「十一献金」は気づかせてくれるのです。神さまに任せ切れないでこの世の価値観との間を行ったり来たりせず、きれいさっぱり、主なる神さまに身を委ねましょう。そして、「身を委ねる冒険」をする者に、主は、言われます。「必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。」
今年、私たちキリスト者は、信仰の冒険者になろうではありませんか。

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by rev_ushioda | 2017-01-07 10:08 | Comments(0)