「主語は、主」

私は、私が、私の、そのような「主語」を自分に置くことから離れて、「神」、「主」、「主イエス」を「主語」にして考える、これを信仰と言います。
たとえば、泉教会の事を考えてみると、主語を「私」にして言うと、このようになります。 ― 泉教会は、潮田牧師が開拓伝道によって開設した教会である。潮田牧師は、いずみ中央の駅の近くが良いと思って、そこを中心に家を探していたが、たまたま現在の家に出会ったのである。駅からは離れているし住宅地の中でもあるので、当初、難色を示したが、来てみるとしっかりした家だし、二つの駅に等距離で、町の中心に位置するということが分かり、ついに決心し、ここで教会を始めることを決心した。
これを、「神」または「主」を主語にして言い換えます。 ― 主は、潮田牧師に開拓の志を起こさせた。主は、ご自身がすでにこの町に進み出ておられることを示すために、町の真ん中に一軒の家を用意された。主は教会が地域に開かれるために町の真ん中に礼拝の場所を用意し、私たちの目を主に向かって高くあげることを学ばせたのである。
この「主」である神の物語の中に自分を置くことを、信仰と言うのです。皆さんも一度、自分の人生を「主」を主語にして文章にしてみたらいかがでしょうか。そのように考える者として、皆さんはこの世に生まれたのです。キリスト者であるなら、主語は「主」です。何事につけても、主は、主が、主の… となります。
もちろん、いいことばかりではなく、思うように行かないことも起こりますが、その時も、この言い方は何も変わりません。そういう時は「主は、いったい何を教えようとしておられるのか。主は、私たちをどこに導こうとされているのか」という、祈りの道を作るのです。そのようなキリスト者が、そしてその共同体が、世界に現われた。それが教会です。

記事とは関係ないですが、自宅から見る富士山
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by rev_ushioda | 2017-01-15 22:52 | Comments(0)