「この時代になされた謝罪の意義」

世界各地で民族的、思想的、宗教的、経済的、その他さまざまな原因で対立が深刻化しています。テロは頻発し、クーデターが起こり、日常的発砲事件はアメリカで後を絶ちません。そういうアメリカで、白人警官が無抵抗のアフリカ系アメリカ人を容赦なく殺害するという事件が波紋を呼んでいます。「壁」は、私たちが思う以上に厚いのです。
そのような中、カンバーランド長老教会の総会がアメリカ南部(すなわち、かつて奴隷制を支持した地域)テネシー州ナッシュビルで開かれ、重要な決議がされました。「アフリカ系米国人の兄弟姉妹への謝罪」(仮題)です。
カンバーランド長老教会では50年にもわたって、同じカンバーランドでありながら別組織になっている(させられた)アフリカ系アメリカ人教会との「合同」を推進しようという試みがされて来ましたが、まだ、実現していません。しかし、今回、次のような謝罪がなされたのです。
…私たちは、過去、アメリカの奴隷制を糾弾することにおいて、曖昧であり、かえってアフリカ系アメリカ人の会員を分離、隔離してきた。奴隷制度が廃止された後でさえ、教会員として受け入れることを拒み、分離を推進してきた。それゆえ今、私たちは、自分たちのあらゆる残虐な行為について神の赦しを求め、悔い改めることを決意した。また、アフリカ系アメリカ人の兄弟姉妹に謝罪し、赦しを求め、私たちの罪が原因となった壊れた関係の修復に向けて、働いていくことを決意した。…
この決議の場に代議員として居合わせた饒平名長老は、帰国後、この時のことを深い感動をもって証しされました。
教会は、間違ったなら、その事実を悔い改め、謝罪し、新しい歩みを作る決意をします。「宗教とは、この世の理屈を超えた『物語』を信じる営みだ」(2016年7月17日朝日新聞「ローマ法王の挑戦」)。この世の理屈を越えた物語とは、たとえ負の事実であろうともそれに向き合い、悔い改め、謝罪し、決意の歩みをするときに、始まるものです。この世の理屈でものを言っているうちは、何も始まりません。その理屈を超えるためにこそ、私たちは礼拝者であり、キリスト者であるのです。


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by rev_ushioda | 2016-07-21 16:52 | Comments(0)