「信仰告白に生きる」

 絵画や映画を見ると、意図して、事実に即して描こうとしていない(・・・)ことに気づきます。典型的なのがダヴィンチの『最後の晩餐』。当時、ユダヤではあのような部屋やテーブルで食事をしなかったくらい、承知の上で描いています。レンブラントは『十字架を立てる』絵の中に十字架を立てている自分を描き込んでいます。聖書に関係した絵のほとんどは黒人は黒人のイエスを、日本人は日本人のイエスを、というように自分の国の顔立ちで人物いています映画、直近の『エクソダス』ではモーセ手に杖ではなく、剣を持たせ『復活』は、ローマの司令官の目で(すなわち監督の目で)見た創作です。音楽となれば、私たちのイメージ聖書でいないだけに、まったく独創的な世界が広がっています。小説言わずもがな私たちは、すぐに、これは事実に即している、いや違うと、評論家のようになって話をするのですが、芸術の世界では、そういうことはおかまいなしに事実を正確に描こうとなく・・聖書を読んだ者実存的な受け止め方、彼らの信仰告白をその絵に、映画に、音楽に、小説に、伝えているのです。

 私たちは言葉で教会的な信仰告白を告白するのは言うまでもありませんが、しかし、私たちの、聖書を読んだ者としての実存的信仰告白はどうなのだろうと考えます。絵が描けたら、私はイエス・キリストにこのように従うのだという絵を描きたいし、映画だったらそのように舞台に立ちたいし、音だったらその音の世界に生き、小説ならその主人公として生きたいのです。そこにおいては、他の人と違う生き方があります。その告白を実存的に生きる仕方は人によって違う。そのような人の信仰告白に、だれも異をとなえることはできない、そういう告白的な生き方を、私たちは、持っているだろうか。教科書的な信仰告白をただ繰り返すだけの生き方を、主イエスはのぞんではいないでしょう。また、何かの基準(ファリサイ的基準)に、あっている、あっていないと他人の信仰をそのように見る評価的な生き方は、なおさら、主イエスは望んではいないでしょう。イエス・キリストにぶつかっていく実存的な信仰、その人の、その人らしい告白をこそ求めておられるに違いないと、私は信じています。そこにおいては皆違っていい。私たち泉教会は、その違った信仰告白が一つにされ、神の国を形成する仲間です。




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by rev_ushioda | 2016-06-14 12:18 | Comments(0)