「あかし言葉を」

荒井献とか、大貫隆と言えば、日本の聖書学の大家です。たまたま泉教会に出席されているお一人が昔、同じ教会だったという話になりました。さぞかし難しい話が飛び交っている教会だったでしょうという話になると、「いいえ、教会では難しいことは何もおっしゃいませんでした。教会で教えようという態度は見せず、荒井先生などは、古着の叩き売りが上手だったんですよ…」という日常を紹介してくださった。私は、この先生にしてそうだったのかと、大層感心しました。
そういえば、ある時、仲間から聞いた話ですが、礼拝にその教会の牧師の恩師が出席された。恩師であることは伏せ、一人の礼拝者として紹介。本人も、礼拝で短く「自分は何も取り得がない者です…」と挨拶されたそうです。礼拝が終わると一人の人が近づき、励まそうとしたのだと思いますが、「そんなことはない、聖書には、神は…」と、とうとうと話し始められた。牧師はあわてて、「この方は…」と説明しようとしたが、やめたという。なぜならその恩師の方は、言われるままに「そうですね。本当にそうですね。」と耳を傾けていたからだと。
教会の営みの中で何が必要なのかといえば、聖書の言葉をもって自分が教えられたことを語り合う、「あかし」の空間を作ることを私は大事にしていますが、改めて、その思い新たにいたしました。あかしとは、私はこう生きて来たけれど、聖書によって、礼拝によって、こういうことに気づき、キリスト者になった、キリスト教信仰に生きるようになったし、今後もこの信仰を大事にして行きたい、という言葉です。教会の秩序を教えたパウロは賜物の違いを述べていますから、主語が「あなたは」という指導や教えはその賜物を持った人に委ね、私たちは、もっぱら主語を「私は」にした、「あかし言葉」を教会に溢れさせたい。
信徒が信仰の大事さに気づくのは、人に実際起った神のわざに触れた時です。また、初めて来た人が、聞いて、心動かされる言葉は、神がその人に何をされたかという、あかしの言葉なのです。私に実際起ったこと、私が実際動かされたことを語る、主語が「私」である「あかし言葉」は、泉教会で大事にされ、これからも大事にしていく言葉なのです。 

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by rev_ushioda | 2016-06-03 10:53 | Comments(0)