「聖書に読まれる」

私たちは聖書を読みますが、聖書を読んでいると、やがて、聖書に読まれ(・・・)ている自分に気づくのです。
聖書を読むとき、私たちは少なくとも注解書1冊くらいは傍に置き、分からなければ調べるという、いきおい、勉強の体制をとると思います。分かろうとするのは大事なことですが、しかし、分かるというのは、聖書の言葉を自分の理解できる器に入れることです。果たして、このちっぽけな頭や心という器に聖書の言葉が入る(分かる)でしょうか。分かった瞬間、あなたは分かってない、と言われるのではないでしょうか。
大事なのは、聖書に読まれることです。聖書に私たちが読まれる時、同じ聖書の個所でも、前と違ったメッセージになります。私は、説教において私たちが聖書に読まれることを、大事にしたいと思っています。同じ個所でも、前に読んだ(説教した)同じことは多分、語っていません。説教においてこの個所はこういうメッセージだろうと聴き手が期待、予期した内容とも、違う言葉になっていると思います。すなわち聖書は生ける神の、生ける言葉ですから、神は、1年前、10年前と同じことを語っているはずはないのです。神は今、ここにいる人に向かって、その聖書個所から、今、ここで語る言葉をもっているのです。私は、その言葉に読み込まれた人間として、その言葉を語ろうとしています。「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」(ガラテア4:9)とパウロが言う通りです。パウロは、神を知っている、聖書を知っている自分ではなく、神に知られている、聖書に読み込まれている自分に気づいたのです。その時、聖書は、パウロに新しいメッセージを放って来たのです。
私は皆さんにも、聖書を知っているのではなく、聖書に知られている、聖書に読み込まれている自分を発見してほしいと思っています。それが私の説教です。そういう意味で、私だけでなく誰の説教を聞いてもですが、期待が外れたことは、たくさんあると思います。神は、(誤解を恐れずにいえば)私たちの化石化した聖書の理解や期待を、はずしているのです。その挑戦を真っ先に受けているのは、もちろん説教者であることは言うまでもありません。説教は、そこから生み出されているのです。

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by rev_ushioda | 2016-05-29 23:46 | Comments(0)