「教会を信ず」

「わたしは…きよい公同の教会…を信じます。」これは、「使徒信条」の言葉です。このような簡潔に信仰を体系化した言葉は、洗礼準備のために必要だったと言われています。
しかしまた、このような信仰を表明する背景には、現実にはそうではない状況があったこともまた、想像するに難くありません。聖書を読んでも、生まれたばかりの教会には、不道徳、無秩序など、この世に起こるのとまったく同じ世俗の問題があり、それに加えて異端の侵入など、すでに様々な問題があったことが分かります。そういう事柄への対処、信仰訓練、教育のためにパウロは手紙を書き、それが新約聖書になったのです。そして、大事だと思うのは、パウロはそのような教会を「神の教会」と言い続けます(コリントの信徒への手紙1:2ほか)。教会を信じたのです。混乱ばかり引き起こす人を、それでもキリスト者だからと言ってその人を信じたのではなく、「神の教会」であると言って、教会を信じた。ここが大事なのです。
どこかに行ったら、問題のない教会に出会えるでしょうか。そんなことはありません。教会には物理的な意味で社会との境界線はありませんから、社会がそのまま教会の現実になります。教会に人がいるかぎり、人は罪のゆえに問題を引き起こします。社会の問題は、そのまま教会の問題になります。そして、社会の問題がそのまま教会の問題になっている教会こそ、キリストの教会、世に生きる「神の教会」だったのです。
問題が起こるから問題なのではありません。問題を仲間と共にただしく解決できない時、それが問題なのです。問題を引受け、共に担い、そこにキリストのおられたことを見出すまでは確かに辛い経験もするでしょう。しかし、パウロが「神の教会」と信じた教会も、同様の苦闘を経て、そこで信仰を証ししたことに、私たちの目を向けたいと思います。パウロが生きた教会以上の教会を、私たちは作ろうとしていません。「神の教会」は、問題のただ中にこそありましたし、これからもそうなのです。皆さんの目に「神の教会」が見えているでしょうか。もちろん、見えていると思います。

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by rev_ushioda | 2016-05-18 23:57 | Comments(0)