「霊的ということ」

霊的という言葉が、教会では使われます。広辞苑をひくと「精神に関するさま。神聖で清らかなさま。」とあります。」新明解国語辞典は「霊に関すること。⇔肉的」と書いてあります。何か信仰深そうな、敬虔そうな、あるいは神秘的ともいえそうなニュアンスを受けます。
そうなると、霊的の反対は、世俗、肉的ということになり、私なんか世俗的で…、という言葉が聞かれることになるのです。聖書を良く知り、良く祈る、そういう人が霊的だと理解されていて、私なんかとても、という気持ちになるかも知れません。
しかし、霊的とは、主イエスの目で物事を見つめることが出来る力を持つこと、なのです。しかも、それは与えられる(受ける)ものであって、自分の清さとか信仰の深さによるものではないのです。

「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、「霊」が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2章2~4節)

ですから、霊的というのは、何者かにならなければいけないとか、こちらに何か備わっていなければならないとか、何かしなければならないとか、そんなことではないのです。政治の世界に生きる人も、科学の世界に生きる人も、サラリーマン、技術者、教育者、自営業の人であっても、そして子育てに追われる人であっても、そういうどんな「世俗」に生きていたとしても、主イエスの目で世界を見つめ、人間を見つめることが出来れば、その人が、霊的な人なのです。私たちは主イエスの目で世界を見つめ、人間を見つめて、霊的に生きて行きたいと思うのです。

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by rev_ushioda | 2016-03-04 10:21 | Comments(0)