「なまけものに」

なまけものぶらさがり見る去年(こぞ)今年

元日の『折々のことば』(朝日新聞)に有馬 朗人(ありま あきと、物理学者、俳人、政治家)の句が紹介されていました。
言われているのは、動物の「なまけもの」のことですが、この句の選者は、「時流から外れ世を逆さに見る感覚だけは内に養っておきたいと年始に思う。」とありました。
最近は時間の切り売りと言いましょうか、携帯の料金だけでなく、バイキング形式のレストランで「分単位」で食事料金が計算され、駐車料金もかつては1時間単位だったのが10分単位、細切れ化が進んでいます。時間がない現代人には、分単位で物を売るのが流行るのでしょうか。何か忙しく、せち辛い。
そういう中で、西サモアにあるウポル島、酋長の演説集「パパラギ」という本が訴えています。パパラギというのは、彼らの言う、白人のことです。白人は一日を細切れに刻み、時間というものに追われ、時間がない、時間がないと言って生活している。また、職業というものを持っていて、一人の人が毎日、同じことをする。だから仕事のことを話す時、ため息をつく。しかし、サモアの若者は、歌を歌いながらタロイモを掘りに行ったり、ほかのこともする。時のくるままに時を愛してきたし、十分な時間を持っている。このように、書いてありました。
同じ時間を持っていながら、私たちは、時間を細切れに刻み、時間がない、時間がない、と言っているのに、サモアの人々は時間と時間をつなぎ合わせて十分な時間がある、と言うのです。私たちはお互いばらばらですが、サモアの人々は、違ったものを結び合わせて、一緒に生き、一緒に働き、一緒に休むのです。つなぐ発想、結ぶ発想で終始しています。
聖書を開けば、40年もの間、荒れ野の生活をしなければならなかった人々のことが書かれています。しかし、こう言っています「あなたの神、主は・・この広大な荒れ野の旅路を守り、この40年の間、あなたの神、主は共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。」(申命記2:7)

この世の時間に支配されず、礼拝の時間くらいは確保するなまけものになって「ぶらさがり見る」と何が見えて来るのでしょうか。

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by rev_ushioda | 2016-01-02 00:33 | Comments(0)