キリスト者の「終活」

よく聞く言葉で「婚活」「就活」があります。ところで、総務省統計局のデータによれば、高齢者の人口に対する割合は増加し続けて、20年後には日本の人口の約3の1を占めるようになるということです。私自身も含めて、これは教会にとって大きな課題と言えます。そこで今、高齢者の間では、子どもへ大きな負担はかけられないといって、迷惑をかけずに人生を終わるための準備が流行っています。自分の葬儀や墓を準備したり、様々な生前整理、そういったことを“終活”と言うそうです。
確かに自分の人生の閉じ方は大事ですが、しかし、ただ迷惑をかけないようにするだけの、自分の始末の仕方だけのいわゆる「終活」であったとしたら、私たちキリスト者の考えることとしては、いかにも寂しいではありませんか。
「終活」というなら、私たちは、神さまからこの手に託された信仰の遺産、特に礼拝の遺産を次の世代に残すことを真剣に考えたいと思うのです。旧約聖書を読めば、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と書いてあります。代が替わっても、同じ礼拝が続いたのです。私が手にしたこの礼拝の生活というバトンを、次の走者に手渡すことなしに、自分だけ“さっさと”この世を去ってはいけないと思うのです。特にバトンを渡すのは、家族です。それは子どもでしょうか、孫でしょうか。まず、それが考えられます。しかし、場合によっては配偶者であってもいいし、逆に、親であってもいいのです。いずれにしても、私が去った後の礼拝の椅子に、必ず誰かに座ってもらうことを私たちのこの後の「終活」、祈りの道作りとしたいのです。
私たちは世の中の人と同じになって、子どもたちには迷惑をかけたくないと自分の始末のことだけを考えていてはいけません。子どもや孫に信仰、特に礼拝生活というすぐれた遺産を残すことをこそ、真剣に、具体的に考えていきたいのです。

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by rev_ushioda | 2015-06-04 22:56 | Comments(0)