「大丈夫ですか?」

礼拝に長くお休みされている方に、「お祈りしています」とお伝えすると、多くの方が「何とかやっています。私は大丈夫です。」とお答えになります。牧師の祈りは、もちろん健康のためもありますが、牧師が祈ると言えば、何よりも、信仰のことです。洗礼の時、誓約で「はい」と答えた、その信仰は、大丈夫でしょうか?
礼拝に出なくても「私は大丈夫」となれば、牧師も教会も要らなくなります。礼拝に出ることが出来ないなら「私は大丈夫ではない」と言う。聖書を読まなくなったら、祈らなくなったら、「私は大丈夫ではない」と言う。キリスト者(信仰者)には、そういう自覚が何よりも必要なのです。

昔、エジプトから導き出したユダヤ民族に、神は世界の厳しい状況を見せ、その世界に調子を合わせることで神から離れ、命を失うな、と警告しました。以下、その時の言葉です。
「もし、この呪いの誓いの言葉を聞いても、祝福されていると思い込み、『わたしは自分のかたくなな思いに従って歩んでも、大丈夫だ』と言うならば、潤っている者も渇いている者と共に滅びる。」(申命記29:18)

どんなに「潤っている者も」、そこに祝福はないのです。礼拝に出ることが出来ないなら「私は大丈夫ではない」のです。自分の体温を計ることが出来るキリスト者でありたいと思うのです。そして健康を回復する手当を、すぐにでも始めたいのです。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教・クリスチャンへ
[PR]
by rev_ushioda | 2015-02-15 21:07 | Comments(0)