「映画 エクソダス ― 神と王」

「エクソダス 神と王」を観た。
3D映画で、あの出エジプトを描くのだから、迫力満点というのが第一印象である。
そして、聖書を題材にしているのは間違いないが、当然であろうが監督の「解釈」が加わった「映画」であると、観て、まず思ったことである。
「10の奇跡」が及ぶシーンは、神の意志は主張されていたが、むしろそれは自然現象として引き起こされた。水が血にかわるのは、ワニに食べられた人間の血で表現。血に染まった川から逃げて来たカエルの群れ。カエルの死体からぶよが大量発生し、うじが街中にあふれかえる。うじが運んできたウイルスで家畜に疫病が流行り、死ぬ。刺された人の身体には、はれものが生じる、加えて、雹やイナゴといった自然異常、暗闇などの天体異常、という具合である。
そして、あの紅海を渡る壮大な場面は、自然現象として水が引き始め、大きな竜巻のようなもので再び水が押し寄せるのである。
神からの啓示はどうなっていたかというと、一人の子どもを登場させ、子どもの言葉で神を啓示するという方法をとる。神はだれも見たものはいないのだから、子ども(の姿)であってはいけないか、というような台詞があったと記憶する。
そして、私が一番興味を持ったのは、モーセが一人の人間として、迷う人として、描き出されていたことだ。自分たちがエジプトを脱出できたのは「神の奇跡」だったのか、「偶然」だったのか。最後まで信仰のない、悩む人間として描かれていた。「出エジプト記」13章では神が民を導くのに対し、映画では、イスラエルの民を従えるモーセ自身が、悩みながら、進む道を選択しないといけない。
聖書ではモーセの手には杖があるが、映画では、剣である。それが象徴するように、最後まで人間の力を前面に押し出す。たとえばエジプト王ファラオが、「私が神だ!」と言う。他方、モーセは剣の人であったが、神に選ばれ、しかしその神と格闘しながら、神から託される役割を担うようになる。
映画の題には「神と王」とつけられている。自ら神と言うエジプト王ファラオ。他方、神を否定しながら最後まで剣と自分の判断に頼っていながら、しかし神に選ばれ、用いられていく、人間モーセ。私は、これは映画であると割り切りながらも、人間モーセに焦点を当てながら、しかし「神と王」と題をつけ、結局、人間を導くのは神の支配だとこの映画は言っていると、思った。

映画「エクソダス 神と王」 予告編
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by rev_ushioda | 2015-02-10 11:59 | Comments(0)