「干支に思う」

主イエスは、弟子たちに「わたしを何者だと言うのか。」とお尋ねになったことがあります(マルコ8章29節)。主イエスがこの質問をなさった場所はフィリポ・カイサリヤという所でした。この地名からも想像できるように、カイザルを神とも救い主とも崇めるところで有名でした。また、所狭しと異教の神々が奉られている所でした。主イエスはあえて弟子たちをそういう場所に連れて行き、「わたしを何者だと言うのか。」と質問なさったのです。
日本は、わざわざそういうところに行かないでも、私たちの周りには至る所に神々が奉られていて、また、カイザルならぬ今の政権の支配はいよいよ人の心にまで入り込もうとしています。そういう場所で、今、主イエスは言われるのでしょう。「わたしを何者だと言うのか。」
ところで、干支(えと)という習慣が日本にあります。年賀状となると、この干支で溢れかえるわけです。干支とは、古代中国の暦の組み合わせから来たもので、十干・十二支といいます。(十干とは、10区分の記号で、等級区別を表します。甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸がそれです。また、十二支とは、木星が12年で天を一周することから天を12区分した記号で、年・月・方角・時間を表します。すなわち、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥。)
干支(えと)は、これら「十二支」と「十干」を組み合わせたもので、60を周期とする数詞であり、暦を始めとして、時間、方位などに用いられます。ところが、これを実在の動物や架空の動物を当て字で用いるようになり、現在では縁起を担いだり、霊験あらたかなものとして、吉凶を占う材料になっているのです。
キリスト者は、そのような文化、風習の中で、どういう態度をとったらよいでしょうか。「わたしを何者だと言うのか。」と言われる主イエスそっちのけで、干支という「縁起」に振り回されてはいけないと思います。あの占星術の学者たちは、黄金、乳香、没薬を主イエスにささげて別の道に旅立ちました。献げたものは占いの道具だったと言う人もいます。そうでなかったとしても、占いによって運命、縁起をかつぐ干支からは「別の道を通って」行きたい。
来年は、干支ではヒツジだとか。「あなたがたがヒツジと言って拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」というような機転が利くといいですね。使徒言行録17章23節参照。

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by rev_ushioda | 2014-12-28 22:15 | Comments(0)