「子どもを礼拝に連れて行く使命」

少年サムエルは、エリ先生から呼ばれたと思って、行って、言いました。「お呼びになったので参りました。」すると「わたしは呼んでいない。」そういうことが3回繰り返されました。そしてついにエリ先生は、サムエルを呼んだのは神であると悟り、戻って神の言葉に聞くようにと、サムエルに言うのです。

神が呼んでいてくださるのに、どこかに行って、あるいは誰かのところに行って、そこで「呼ばれた」と思う子どもが出て来ないでしょうか。
そこで「わたしは呼んでいない。」と親切に言ってくれるならいいのです。しかし、現実は果たしてどうかと言えば、子どもの魂を支配して無気力、無責任、怠惰に陥れようと誘惑する者がいるのです。親が、神に呼ばれる声がどういう声かを「幼い日から」知らせていないと、子どもは、どこか、とんでもない所に行って、言うのです。「お呼びになったので参りました。」そこに行ったばかりに、神ならぬものに支配され、現代社会においてはくやしい思いに打ちのめされ、涙することになるだけでなく、人生を台なしにしてしまうことも起こるのではありませんか。
その人の人生を召命する(招く)方の前にしっかり立たなければいけない時に、違う場所に立ってはいけないのです。だから、親は、神に呼ばれる声がどういう声かを「幼い日から」知らせる責任があります。それは、毎週、親子で礼拝に一緒に行く以外にありません。親の都合で行ったり行かなかったりするうちに、子どもは、すでにいろいろな声を聞いているのです。すでに、そこに呼ばれていると思っているのです。そのように成長しているのです。
来週は、成長感謝礼拝です。思い直して、ここから始めましょう。親子で神の言葉を聞くという、礼拝生活を。

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。
苦しみの日々が来ないうちに。
「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。
コヘレトの言葉12章1節

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by rev_ushioda | 2014-11-07 20:48 | Comments(0)