「人を支配しない会話を」

ある人が、子どもの時の経験を語っていました。
母親にひどく叱られて所在をなくしていた時、たまたまそこに庭の手入れのために来ていた植木屋さんの姿が目に映った。一仕事終え、腰を下ろして一休みしながら今、手入れした植木を眺めていたのだ。行くともなしに、その人のそばにぼんやり座った。しばらくの時間が過ぎた後、キセルの殻をポンと捨てながら、植木屋さんは言った。「坊、お母さんに叱られたな。」またしばらく時間が過ぎ、「なあ、坊、あの松の木はきれいだなあ。」さらにしばらくの時が過ぎてみると、自分の中に安堵した気持ちが流れ、「おじさん、遊びに入って来るよ。」と立ち上がると、植木屋さんは「それはいい。それはいい。」と声をかけてくれた。
その人は言います。それは、自由と安全の雰囲気であった、と。これが、相手を支配しない会話なのです。その時はほとんど沈黙の時間が流れたのですが、そして私たちはすぐ「実際はそうはいかない」と思うのですが、しかし、沈黙しないと、私たちは何を語り出し、いかに人から「自由と安全」を奪っているか、ということになります。
心理学は相手を支配する会話を例示しています。まず、たいていの場合、私たちは「いつ、どこで、誰が、どうした」という「状況」に注意が向きます。そして、命令、注意、訓戒、提案、講義講釈、非難、称賛、侮辱、解釈、励まし、探りなど、全て自分の価値観からくる興味や関心の言葉を話し出すのです。状況を判断して、自分の価値観を語り出す。相手の人の考えや感じ方を受け止める前に、こちらの考え、こちらの感じ方を語り出すのです。それでは、相手は自由と安全を感じませんから、防衛的になる。閉じこもるか、反発してくる、ということになるのでしょう。「あなたは何をそんな屁理屈言っているの?」と感じたら、それはこちらが「自由と安全」を与えていないからなのです。
教会はどういう姿勢で人と接するべきか、まず最初の立ち位置を考えておきたいと思うのです。「自由と安全」の中で人は自分に気づき、福音に触れ、自らそこに向かって立ち上がることを期待したいと思うのです。
「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」ヨハネによる福音書8章6節

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by rev_ushioda | 2014-09-27 10:07 | Comments(0)