「葬儀の司式」

…そして、今日と明日は、葬儀となった。昨日の週報、「牧会のはなし」から引用。

明日、横浜市北部斎場にて、泉教会主催で外部から依頼のあったTさんの葬儀が行われます。皆さんは会ったことのない方ですが、教会から何人かに参加していただきます。
私は、これまで何回、葬儀にお仕えしたことでしょうか。その都度、ご家族の悲しみと痛みに出会い、また、家族の死に際してのさまざまな感情に出会ってきました。その方の生きた年齢や、死の迎え方にもよるのですが、人の生涯が閉じられるその時は、人の言葉ではどうにも包むことのできない、収めることができない、その時でなければ経験しない気持ちが動きます。こんな気持ちがあったのかと、自分でも驚くような感情に出会うこともあります。死別の悲しみや寂しさや、さまざまな思いと共に、不思議な感情が湧き出てくるのです。
そういう家族に、牧師は葬儀の諸式を司式する者として、接します。いろいろお話を聞かせていただき、そして黙想のうちに、聖書からふさわしい個所を引用してお話しすることになります。今、このとき、神さまは御家族やそこに集まる方々に何を語ろうとしているのだろうか。一番ふさわしい慰めと希望の言葉を分かち合えるように祈り、短い時間に全力を傾けて準備します。そして、神さまは、その時にふさわしい言葉を与えてくださるのです。
悲しみや寂しさや、さまざまな感情が動く一番大事な場面に、牧師として居合わせ、司式者としてそこに立てるということは、何と光栄なつとめをいただいたものかと思うのです。葬儀に際して、説教がなければ、つまり決まりきった言葉を読むだけであれば、葬儀の準備をするために、もっと動き回ることができるのでしょう。しかし、説教に集中し、神の言葉をもって葬儀にお仕えできることほど、尊い仕事はないのです。慰めと平和と希望を与える神の言葉が、その家族の中に突き抜けていく。そのために、牧師は集中します。そのためには、教会では準備する人が必要ですが、共に、神の言葉が語られるふさわしい場を用意するのです。
今回の葬儀に際して、改めて、教会は神の言葉に生かされ、神の言葉にお仕えする光栄ある仲間たちであることを思うのです。
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教会から両日とも妻と、神学生、長老1名、そして前夜礼拝にはほかに2人が参列してくれた。ご家族にキリストにある慰めと希望、復活を証ができ、また、お見送りに際して喜んでいただけるよい葬儀であったと思う。

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by rev_ushioda | 2014-09-23 01:27 | Comments(0)