「分からないことの大事さ」

「キリスト教って何ですか?」と訊かれて、私は、牧師でありながら、実は答える自信がありません。こういうものです、と答えた瞬間、キリスト教から離れている、と感じるからです。「イエス・キリストって、どういう方ですか?」も、同じです。神学校で「教義学」とか「組織神学」を通して「キリスト教」について学び、一定の理解を持つことは大事です。しかし、それで分かったとするなら、それを傲慢というのであって、学べば学ぶほど、分からないことが分かった、とすべきでしょう。
最近、ニュースで「解釈改憲」という言葉を聞いたことがあるでしょう。解釈を変えて、結局は憲法を変えたと同じ効果を出すこと、つまり、私たちから言うと、憲法の平和主義を骨抜きにしてしまっている、ということになりますが、そういうことが世の中に起こっているのです。今回の解釈改憲は、「首相がやりたかったことだ」と与党幹部が言いましたが、やりたかったことで解釈が生まれ、結局、改憲と同じ結果が生まれたというのですから、事は重大です。
同じことをキリスト教信仰に対して、聖書に対して、私たちは、してはならないのです。してはならないということは、してしまいやすい、という意味です。聖書をこのように読みたい、読むべきだ、という欲求があるとします。それは、その人の性格とか、人生経験とか、背景にはいろいろあると思いますが、聖書にこう言ってほしい、という気持ちがどこかにあると、それが聖書解釈になり、そして、あたかも聖書はそこを大事に言っているのだ、というように「改憲」できるのです。私たちは、そんなことは、してはならないのです。
『使徒信条』や、カンバーランド長老教会には『信仰告白』があって、そこには信仰の基本的なことが短くまとめられていますから、まず、その範囲にとどまることが大事です。そうでないところに興味関心があるとしたら、あるいは、たとえその範囲内にあってもどこかを強調したい気持ちがあるなら、それはなぜか、まず立ち止まって、自己吟味することから始めることが必要だと思います。個人の潜在意識で、聖書やキリスト教を「解釈改憲」してはならないからです。
私たちが知りたいことで、しかし、聖書や信仰告白諸文書には書かれていないことは、たくさんあると思います。その場合は、「私は」というように限定的に話すべきでしょう。「私は、聖書をこう読んだ」「私は、こう信じる」というように。その解釈を人にも押し付けるべきではありません。聖書を通して神はご自身を啓示してくださっています。『使徒信条』には教会が基本としている信仰の言葉があります。しかし、そこには意外と、人が知りたいと思うことは書いていない。ということは、キリスト教は、人間はすべてを知りえないのだ、という理解、敬虔を示しているのではありませんか。それを傲慢にも「解釈改憲」してはならないのです。
興味や関心があるテーマは、では、キリスト教諸文書ではどう位置付けられてきたか、そこ(神学すること)から始めることが肝要です。

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by rev_ushioda | 2014-07-18 11:04 | Comments(0)