「すばらしい証の日に」
2014年 05月 17日
さて、その日、以下のニュースが流れました。憲法9条の解釈を変えて集団的自衛権の行使を可能にし、他国を守るために自衛隊が海外で武力行使できるようにする。安倍政権は日本をこんな国に作り替えようとしている。(毎日新聞)「戦争をしない国」という基本理念を見直すことを意味する。(朝日新聞)
はからずも、すばらしい恵みと祝福を受けて礼拝堂を出た日、流れたニュースが、上の内容でした。
私は、暫く前にここで、以下のようなことを書きました。
たとえば、元気がない池の鯉を治療して、健康を回復させ、池に戻します。しかし、元気がなかった理由は、池の水が汚れて酸素が不足していたからだとしたら、どうでしょうか。「伝道」によって、一人の人が神を信じるキリスト者として、世に送り出されます。しかし、そこが汚れて酸欠状態であったら、どうなのでしょうか…だから、生きていく場所をしっかりと残すことを、「伝道」に対して、「宣教」(説教をはじめ、教会の働きのすべて)と言っておきたいと思います。教会は、「伝道」と「宣教」と、この両方が必要なのです。
現内閣は矢継ぎ早に法整備をしていますが、目指すのは「美しい国」であり、それは、戦前のような君が代を学校でうたわせるなどの思想統制とか、情報操作とか、軍国主義回帰、憲法を都合の良いように変えようという強権政治を指しています。今回も、ニュースを聞きながら、私はそれこそ窒息しそうな気持でした。
私たちは、そういう世の中に生きていることに十分な関心を持ちながら、祈りの道を歩んで行きます。そして、そういう世の中に生きていることに十分な関心を持ちながら、福音を語ります。伝道します。そうでないなら、福音は、絵に描いた餅になってしまうでしょう。私たちは「空を打つような拳闘」はしないのです。