「説教原稿を配布する」


どの教会の週報でも、よく目にするのが「先週の講壇」。先週の説教の要約です。私は、先輩牧師がそうしているのを見て、これだと思い、ずいぶん昔から、その日の説教の要約をその日の週報に載せています。ただ、要約というとあまりにも説教とかけ離れ、別の言葉になりますので、私は、その日の聖書個所の「一つの黙想」としています。
また、この数年は、説教原稿も6、7部コピーして欲しい人に配布することもしています。その日の説教の原稿を、その日に配布する。これは、聞いた言葉を、1週間のうちにもう一度反芻(はんすう)してほしい、という願いがあるから始めたのですが、お休みになった人も、御言葉を求めれば読むことが出来る、ということでもあります。
そのようにしているのですが、していながら言うのも変なのですが、説教ということを考えると、これは、あまり良いことではないと承知しています。語った言葉と文字の言葉には当然、聞く、読む、という違いがあるのですが、実は、それはものすごい開きなのです。語るというのは、その日の調子や語り方がありますし、原稿にない言葉も出てきますし、用意した原稿をカットすることもあります。原稿というのは、とりあえずそのように準備したというもので、実際は、あとは「開いている」のです。礼拝の主に「開いている」。ですから、語った言葉は、用意した原稿を越えています。それが説教だと思うのです。そういう意味で、原稿は原稿であって、説教ではないのです。
それを、語る前に準備して配布してしまうというのは、かなり乱暴ではあるのです。よく分かっているのですが、しかし、説教としては未完成の文字原稿ではあるにしても皆さんに何とか礼拝の言葉に近づいてほしいという思いがあるから、原稿を配布しています。その日に聞いた言葉を道々、思い出してほしい、聞いた言葉を1週間の生活の中で動かしてほしい、という願いがあるから、原稿を配布するのです。
私たちは、完全な道を行くことは出来ません。しかし、エマオに向った二人が、あとから「心は燃えていたではないか」と言ったような道行きに、何とかしたいと思うのです

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by rev_ushioda | 2014-05-09 10:25 | Comments(0)