「礼拝を奪い返す」
2014年 03月 01日
雪であっても、どうしても行きたい人は、歩いて(電車を使って)礼拝に行きました。集まる人が大変だろうと、雪かきのためにスコップを持参し、電車に乗り、礼拝に向かった人もいました。今日は人数が少ないだろうから、せめて自分は行かなければ、と思って礼拝に向かった人もいました。キリスト者であるということは、「礼拝者」でありました。そのことが、2週連続の大雪で、はっきりしたのです。
礼拝に出ることができない一人の人は、自分が礼拝に出たら捧げるはずの献金を、毎週、必ず、人に託します。礼拝に行かなかったから献金しなくてよい、とは考えないのです。礼拝に行かれなかったとしても、心は、「礼拝者」として、そこにあるのです。礼拝に行くことができない時でも、しかし、その日の礼拝献金を託すということで礼拝を大事にすることは出来るのです。献金を託す人がいなければ、次週、まとめてささげればいいのです。なるほど、色々な礼拝への道があるのだと思います。
私たちの教会でシール投票をした赤字対策案ですが、一番多くシールを集めたのは、「礼拝を大事にしよう」でした。キリスト者とは、礼拝者です。その礼拝が、大雪や、その他の事情によって奪われることがあります。もし、奪われたら、それでも、たとえば献金することで礼拝を奪い返したらよいのです。奪われたまま、にしておかないで、礼拝を奪い返すくらいの気概を持つ。それがキリスト者です。
ゆきなれた路の
なつかしくて耐えられぬように
わたしの祈りのみちをつくりたい (八木重吉)