「神学生を迎えて」

「わたしは呼んでない。戻っておやすみ。」(サムエル上3:5)

そんなふうに言われたらどうしよう、牧師になる、とは言ったものの、私は、それを神からの「召命」だとどうして確認できるのだろうかと、40年前、思っていました。もしかして、自分が勝手にそう思っているだけではないか、とても不安だったのです。しかし、教会の推薦を受け、神学校の入学試験に合格、中会会議の承認を受けて中会神学生になりました。何とか神学校を卒業でき、中会会議で伝道師に任職され、最初の教会に派遣され、そこで三たび、中会会議で承認を受けて牧師の任職式(按手礼)を迎えました。この節目節目を越えて初めて、ああ、本当に神からの「召命」だったのだ、と思ったものです。
今週、教職者試験があります。教職者というのは、牧師のことです。教職者試験(牧師試験)に合格し、つまり事前審査を通過し、そのあとで持たれる中会会議で牧師にふさわしいと承認されれば、任職式(按手礼)を経て、牧師になれます。
私は、なってはならない者が牧師になるとしたら、神は強制介入してやめさせるに違いないと思っていましたが、果たして、牧師任職式(按手礼)の日のことです。説教者が定刻に到着しないのです。ああ、ついにここでストップをかけられたのか… 30分以上遅れて説教者が到着し、無事、式は行われたのですが、最後の最後まで、召命確認の緊張の連続でした。
牧師への道は、本人がなると言えばなれるものではありません。いくつもの手続き、面接、また神学校での訓練、能力の承認(卒業)があり、会議での承認を経て、牧師のつとめに任じられていくのです。それだけ、牧師のつとめが大事なものだからです。主から託された信徒一人一人に、みことばをもって仕える責任を負うのです。どんな嵐が吹こうがつぶれない信仰を世に証しなければなりません。慎重な手続きがあって当然です。
しかし、それは逆に、信仰がそれほどまでに大切にされている、宝のように素晴らしい、ということを表しているのです。教会は、今年、神学生を迎えています。昨年の中会会議で中会神学生として受け入れられ、最初の研修教会として私たちの教会に派遣されたのです。神学生の一生懸命を見て、私たちは、手に託されている信仰の宝を思うべきです。

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by rev_ushioda | 2014-01-14 23:20 | Comments(0)